「食」について

『infans』第12号に収録

1.食べた

水木しげる作の『悪魔くん』の、たしか1960年代の終わり頃に『少年マガジン』に連載されていたバージョンだと思いますが、<百目>(ひゃくめ)という妖怪の活躍するお話しがありました。
百目というのは、ダブダブの着ぐるみみたいな皮膚の無数の襞に夥しい目が嵌めこまれた妖怪で、それこそ今の特殊メイクの技術をもってすればカンタンにできそうな……といいますか、今の特殊メイクのために生まれていたようなキャラクターです。実際に、『悪魔くん』の実写バージョン*1では、そういう着ぐるみも登場しましたが……しかし、実は、この百目は、百目ではなかった。
百目は外見だけで、中には<月人>(げつじん)という別の妖怪?が入りこんでいたのです。
詳しいストーリーは忘却すれど、鮮明に覚えているのは、次のシーンです。
悪魔くんと百目の子(悪魔くんのパートナーになっている)が、気球に乗って上昇せんとする百目(実は月人)と対峙する。そこで、百目の子と百目の皮をかぶった月人とのやりとり。
『ぼくのとうちゃんどうした。』
『食べた。』
私は、ここで、ぐっ!ときた。
三島由紀夫が、彼の『文章読本』で、森鴎外の文章の簡潔性に触れたくだりがあって、三島氏は、鴎外のある小説の中で、旅館の一室にメイドが水を運んでくるシーンで、端的に『水が来た。』と描写されている部分を激賞しておりましたが……
この『食べた。』は、それよりスゴイ(と私は思う)。
そうか。“食べた”か。そりゃそうだよな。
これ以上、何を説明することもない。必要十分。世界はオシマイ……。これは、“表現”を超えて、一行で詩そのもの。 先の鴎外の文章、『水が来た。』は、主語+動詞からなる。構文としてはこれで一文章。「水」も外せないし、「来た」も外せない。
しかし、『食べた。』はどうですか?
これも、これで一文章なれど、動詞のみ。
実は、主語の「私」が省略されているが、十分に伝わる。
ラテン文章の名句とされる、シーザーの『VENI VIDI VICI.』(来た、見た、勝った。)
この文章も、主語のEGO(私)が省略されている*2。ラテン語は動詞の活用語尾の中に主語の人称と数(単数・複数)を明示できるから、略されるのが普通だが……
水木氏の、この『食べた。』も、端的という点からすればシーザーの名句に等しい、いや、もしかすると凌駕する迫力。
しかし……と考えてみる。この『食べた。』の迫力は、構文的なものだけによるのだろうか……?
試みに、何か他の句をあてはめてみる。
『見た。』
『行った。』
『買った。』
文脈にもよるのだろうけれど、やっぱり『食べた。』ほどの迫力は出てこない。
この『食べた。』という一語には、世界の構造を、丸ごとひっくり返してしまうような、エクスマキナ的力*3を感じるのは、私だけでしょうか。

2.人が豚を食べても豚にならないわけ

もうしばらく、この『食べた』を考えてみます。
月人は、百目を『食べた』。そして、百目の皮の中に入った。
すると、内側も外側も百目なのだから、月人は、百目そのものである筈。
……しかし、そうはならない。
このお話しのラスト近くで、月人が悪魔くんたちにやられて、百目の皮(まさに着ぐるみ)からフラフラになって出てくるところがある。
すると、月人は月人。この月人というのが、三日月の顔の、水木氏独特のイージーゴーイングキャラクターなので、そこでも笑いながら感心してしまうのですが……。
それはさておき、百目の中身を『食べた』月人は、百目にならずに月人のままである。
これって、ごく普通のことのように思いますが、良く考えてみると、なかなかフシギなことです。
昔、子供の頃に読んだ本*4の中に、「なぜ、人間が豚を食べても豚にならないか?」ということについて、長々と論じていた文章がありました。
私は、この本を読んで、少々驚いた。というのは……日常、ごく普通で、誰もことさら取り組んでみようとしないことを、よいしょと持ち上げて、はてなぜだろう?と考えてみる人がいる……。今にして思えば、これは、どこかアートや科学の発端、センスオブワンダーに通ずるものがあるような気がしますが……。
とにかく、その本では、人がモノを食べると、すべて分解されて吸収され、結局、人の身体に造り変えられるのだ……と書いてあった。
これは、消化、吸収の道理ですが……やっぱり、食べるというのは、口に入れる→消化器官で分解、吸収する→自分の身に造り変える……とここまで全部を含んだ行為でしょう。そして、最後に「不要になったものを自分から出す」というプロセスがきます。
そうすると、これは、どういうことか……?
私は、ここで、どうしても「支配」というキーワードを思い浮かべてしまいます。

3.アルケー

『支配』というのは、日本語の語感ではかなりイメージが悪いけれども、古代ギリシア語でいうなら、『アルケー』ということです。
『アルケー』は名詞形ですが、その動詞形の『アルコー』という言葉には、日本語の『支配する』という意味とともに、『始める』という意味もある。したがって、名詞形の『アルケー』にも、大きく分けて、『支配』と『始まり』という二つの意味があります。
古代ギリシアの哲学者たち(ソクラテス以前の哲学者たち)の諸哲学を評して、『アルケーをめぐる巨人の戦い』といった人もいたようですが、要するに、<ものの始まり>、<始源>ということから、アルケーという言葉は、この世界を律する普遍法則、つまり、世界を<支配>する<根本原理>……というような意味に用いられているようです。 日本語の語感で「支配」というと、なにやら、力づくでムリヤリ相手を自分の意のままにする……という意味ばかり強調されるが……古代ギリシア語の「アルケー」という言葉の含むニュアンスは、もう少し論理的なもので、現象の根底にある、世界を律する法則……という感じも受けます。
さて、そういう意味で、『支配』というキーワードで、『食べる』ということを考えてみますと……、
私が、なにかを食べる。そうすると、食べられたものは分解、吸収されて、私になる。つまり、「私という法則」の支配する世界に組み入れられてしまうワケです。
私の「第一身体」(ファーストボディ)*5、これは、このようにして形成され、機能する。
すると、<私>と<私でないもの>の境は、この<支配>をめぐるせめぎあいの領域……ということになりますね。

4.透明人間はどこから透明か

H.G.ウェルズ原作の『透明人間』。
このお話しを最初に知ったとき、私の頭に浮かんだ疑問は、次のようなものだった。
「透明人間は、どこから透明になるのか?」
たとえば、透明人間がものを食べるとします。
そうすると……透明人間の口の中にあるときは、まだ食べられたものは透明になっているわけではないので、その形はよく見えるでしょう(透明人間の頬も当然透明だから)。
咀嚼され、食道を通って胃へ行く……その過程でも、まだ透明人間の一部にはなっていないから、見えるはず。
胃や腸で吸収されると……それは、透明人間の体内に取りこまれる……ということなので、ここではじめて透明になる……つまり、透明人間の<支配力>が及んできて、吸収されたものは、<透明人間>という原理の支配するところとなり、だんだん透明になっていく……と考えると、納得できます。
では、吸収されずに残ったものはどうか。これは、厳密にいえば透明人間の体内に取りこまれていないわけだから、その支配原理は及ばず、透明にならない。つまり、透明人間は、自身の排泄物製造プロセスを展覧しながら歩く……というハメにならないだろうか。
透明人間は、消化器官内部を移動する食物のナレノハテを造影剤として、自身の消化器官の形態をくっきりと顕示しつつ街を歩かねばならない……という、なんともコッケイかつ恥ずかしい姿となる。
いやいや、そうではないでしょう。消化器官内部に入ったら、そこはもう透明人間の内部だから、そこから透明になるんでしょう……という考え方もあると思います。
すると……透明人間が食事をする場合、透明人間が口をあけて食物を放りこみ、口を閉じる……その瞬間に食物は透明になるということでしょうか。
あるいは、排泄の場合、透明人間の肛門から出た、その瞬間に不透明になる……ということでしょうか。
もしくは汗。透明人間が汗をかくと、皮膚の汗腺から出た瞬間に不透明になる……ということなのだろうか。
これは、くっきりはっきりしすぎて、どこか不自然のような気がします。
あるいは、上記両者の中間的な考え方として、透明人間がモノを食べたとき、すぐには透明にならないで、少しずつ透明になっていく……たとえば、口の中くらいでは透明にならないが、噛み下された食物が食道から胃に移っていくころには透明人間の<支配力>が及んできて、グラデーション的に透明になっていく……。すると、排泄の場合はこの逆で、透明人間の体内から出たものは、出てしばらくはまだ透明人間の支配原理の圏内にあって透明であるが……少し時間がたつと、やはりグラデーション的に見えてくる……これは、ナントナク納得できるような気もするなあ……。 と、こんなふうに、くだらない?ことをいろいろ考えていましたが、結局、これは、人の<支配領域>がどの範囲なのか……という問題だったのですね。

5.罪もない?人々

2001年9月11日のニューヨークのテロ事件のとき、『罪もない人たちを……』と怒りの声があがった。
この、『罪もない人たち』というフレーズは、よく使われますね。とくに、殺されたのが赤ちゃんや子供の場合、頻繁に用いられるような気がします。
しかし……9月11日のテロで殺された人々は、本当に『罪もない人々』だったのだろうか。
<支配領域>という考え方からすると、私は、とてもそうはいえないと思います。
人に限らず、生命というものは、その<支配領域>を必ず持っていて、その最小限の範囲は、通常、物理的身体ということになります。 
たとえば、私の身体。手や足や頭。これは、<私>という支配原理に従わされて、<私の手>、<私の足>、<私の頭>として機能するように制御されている。つまり、<私>という支配原理のコントロール下にあるわけです。 ですから……たとえば、私の手の細胞が、手の形はイヤだと。足の形になりたいとか胃袋の形になりたい……あるいは、もっと別の、ワケのワカラン形になりたい……といっても、私はそれを許さない。
<私>という支配原理は、あくまで手は手、足は足であってもらわにゃ困るということで、絶対的支配権をふるって全身の細胞を自分のコントロール下に置こうとする。
しかし、中には、反逆するヤツも出てきて、それがガン細胞になったりするわけですね。
私は、もはや<私>の役を負えない疲れきったヤツらや反逆者に対しては、<私>のコントロールを解いてなにかワケのワカランものにして自分から追い出す。そして、<私>という支配領域を維持していくために、新たに外の世界のものを取りこみ、それらに<私>を強要して<私>の一部となす……。
このようにして、<私>という存在は、この世界に成立している。
とすれば、これは、考えてみるとずいぶん乱暴なことです。
とても、『罪もない……』なんていえるようなお話しではない。
なぜかといえば……<私>という支配領域が、その支配の正当性について、論理的かつ理性的に最後の最後まで極められた明確な根拠を提出することができないからです。
埴谷雄高氏は、その長編小説『死霊』の中で、『自同律の不快』ということをさかんに言っておられるが、これは、結局、<私>という支配原理の明確な根拠に関する指摘であると思う。
『オレはオレだ。だからオレに従い、オレになれ』*6
少なくとも、<私>という支配原理がほぼ貫徹されている<私の物理的身体>に対して、私はこんなことを言っているワケです。
そして、<食べる>というプロセスをもって<私>の中に取りこまれるものについても、私はそのように言ってます。
すやすやと、幸せそうに眠っている赤ちゃんを見ていると、どうしても『罪もない……』という言葉が思い浮かんできてしまうのだけれども……実際は、その赤ちゃんが赤ちゃんである限り、その物理的身体の中では、正当な根拠というものを全く示すことのできない、『オレはオレだ。オレになれ』という恐ろしい?支配原理が荒れ狂って?いるのです。

6.心の闇

この支配原理は、まず第一には物理的身体にかんするものであるけれども、それを敷衍していくと、私の身の回りの品、家、そしてものの考え方……さらには人と人のつながり……と、物理的身体を超えて広がっていくものであることは、容易に想像できます。
そして、そこで……他の存在の<支配領域>とぶつかり、さまざまなドラマ?が展開される……それも容易に想像できますが、あまりに範囲が広がりすぎると、「食」というテーマの持つ生々しさから離れて、いろんないいわけがたっぷりできる前頭葉的な世界に入っていってしまうので、その方向への深入りは避けます。
それよりも、もっと根本的に重要なのは、やはり<支配原理>の根拠、すなわち、その正当性について掘っていってみるということでしょう。……それで、もう少し、この方向での話を続けてみますと……
『人の心の闇』……という言葉を、最近、よく聞きます。
ちかごろのように、ワケのワカラナイおかしな事件ばかり連続すると、つぶやき、ぼやきのように、『人の心の闇は深い……』という言葉が出てしまいます。
道を歩いている……ごく日常の風景で、足元に踏む地面も、確かな、堅固な応答で支えてくれている……と思っていたら、突然地面が崩れ、自分も、まわりの日常風景もすべてが呑みこまれてしまった……地下に、大空洞があいていた……そんな感じでしょうか。
私は、この『人の心の闇』と、先程来の明確な根拠を示せない<支配原理>とは、実は、密接なつながりがあると思います。
私たちの日常の意識、日常の生活は、心の地下にあいた大空洞の表面に張られた薄皮一枚……それを頼りにして成りたっている……といえば、言いすぎでしょうか。
デカルトは、『方法序説』の中で、根本原理を発見するまでは、暫定的に<ある道徳の規則>を基準にするのだ……というようなことを言っていたように思いますが*7、まさにそういうことなのでしょう。

7.空洞へ

M.J.Q.のピアニスト、ジョン・ルイスがバッハの平均律クラヴィーア曲集第一巻に取り組んだディスクを持っています。
このディスクでは、彼は、プレリュードは自分のピアノだけで、フーガは他の奏者とのアンサンブルで聴かせますが……全24曲の中で、私が本当にビックリしたのは、第13番のプレリュード*8でした。
この曲は、シャープがやたら多い(シャープ6個の嬰ヘ長調で始まる)けれども、曲想自体はけっこう単純明快で、楽譜どうりに弾かれた場合、ごく普通にサロンに響いていても、まったく違和感のない……それこそルノワールの絵の中の乙女が弾いていても何の不思議もないような曲に……一聴すればきこえます。
だが……ジョン・ルイスの魂は、この一見単純な曲の中に、人の心の地下に拡がる大空洞……『心の闇』の世界を読みとった。*9
カギは、曲が始まってすぐに左手に現われる下降音型にありました。
この曲は、右手が一見単純そうなメロディーを奏で、左手がそのメロディーをゆっくりとした下降音型で支える……というスタイルで始まります。
私のような素人が聴くと、どうしてもメロディーラインの強い右手の音型にとらわれてしまうのだが……ジョン・ルイスの、とにかくさまざまなことを潜りぬけてきた音楽家としての魂は、左手の下降音型の重要な役割を感知したのですね。
それで……曲は、最初、楽譜どうりに始まるのだが……表面の右手のメロディーラインの裏で、ゆっくりゆっくりとこの下降音型が反復されるうちに、あるところで、突然、この下降音型が主導権を握る。*10
それは……「昼の光に遊ぶ右手」を裏にまわって支えてきた「左手」が、「さあ、これから魂の旅のはじまりです」といって「右手」を取り、「日常」の下に開く地下の大空洞に誘う……そんな感覚です。 そして……「魂の導き手」となった下降音型は、ゆっくりゆっくりと、地下世界への道を降りていく……それにつれて、右手は完全なインプロヴィゼーションとなって、導かれる魂の、心の動き……目に映り、感じ、思い、考える心を、その心の揺れのままに表現します。
こうして、魂の深部をめぐる旅は始まります。
この旅は、時間にして数分程度の短いものだけれども、心には、ものすごく長い時間に感じる。地下の大空洞は複雑に入り組んでいて、高い天井の大広間や狭い通路、そして、地下の川が流れ、石の橋がかかっている……。
全体は、どこからさしてくるのかわからない不思議な光に満たされて……やがて、いくつかの部屋が見えてくる。
下降音型の魂の導き手は、その部屋のドアを一つ一つ丁寧に開いて、われわれに見せてくれます。その部屋の中には……人の心の深いところにしまわれている記憶の繭のようなもの……人の、いや私の、生い立ちや体験……現象的な体験が魂に刻み込んだ刻印……さらに私という枠を超えて、過去に、未来につながっていく系統樹……そして、もしかしたらこの地球という遊星の範囲を超えて拡がるさまざまな転生の記憶……。
それは、もうとっくに私が忘れてしまったもの……形も定かでなく、日常の意識には殆どのぼってこないもの……しかし、あるとき突然に心の表面に沸騰して理性もなにもなぎ倒し、私に、了解不能の行動を強いるもの……そういったものが、この心の闇の大空洞の奥に眠っている……下降音型は、その部屋のドアを一つ一つ丁寧に開いて、その<定かならぬもの>の気配をわれわれに見せてくれるのです。
そして……バッハ−ルイスのこの曲は、膨大な心の奥の存在の棲家をめぐるうちに、いつのまにか道は登りになります。旅の終焉の予感……そして、本当に突然に……という感じで、ポッカリと光の中に出てしまいます。
溢れる光……暗闇に慣れた目には眩しすぎる光の均一性……しかし、目を細めて良くみると、そこは元の、こざっぱりとしたサロンなのです。
映画『2001年宇宙の旅』のラストシーン*11で、ディスカバリー号のボーマン船長が、スペースポッドに乗って木星の衛星系に漂うモノリスに向かうが……突如ワームホールに吸いこまれて無限の宇宙空間を次々と超え……ポッドが着陸したところは、なんとヨーロッパのクラシックスタイルの光に満ちた部屋だった……というあの驚きに似たものが、そこにはありました。

8.闇に生まれる魂

京都の上賀茂神社で、5月15日に行われる葵祭。あれは、一見、あの王朝絵巻風の行列が祭の主体に見えますが、あの行列は、実は、降臨した別雷神(わけいかづちのかみ)に参拝する天皇の名代の行列を模したもので、このお祭りの本当のクライマックスは、祭神である別雷神の降臨それ自体にあると考えられます。
上賀茂神社のすぐ北に、神体山である神山(こうやま)がありますが、この神山に、5月12日の深夜、神官十数名が登ります。そして、定められた儀式の場に着くと、神官たちは、完全な暗闇の中で、神秘的な『御阿礼神事』(みあれしんじ・神の降臨の儀式)を執り行います。
天皇の名代の行列である『路頭の儀』の方は、京都三大祭りの一つにもなっているくらいで、もちろん誰でも見ることができるのですが、神山で、夜の闇の中に行われる『御阿礼神事』は、神官以外誰一人参加できず、無論報道にも一切公開されません。……やはり、神の降臨、すなわち異世界の神がこの世界に誕生するという神秘的な儀式は、真っ暗闇の中で、一切の衆目を断って行われるのです。*12
あるいは、FM放送で聴いた話ですが……、ヨーロッパのとある古い教会では、クリスマスイブの深夜、すべての灯りを消して、会堂の中を真の闇にする……ということです。
すると……闇の中に、どこからともなく単旋律の聖歌が響いてくる。この聖歌が、人々の心にしみわたると……最初のロウソク、最初の一灯がともされる。
光が戻ってきたわけです。この一灯は……完全な暗闇の中に灯る最初の光。すなわち、キリストの誕生を意味します。 さらに聖歌は歌い継がれ……それにつれて、ロウソクに火が次々と灯されていき、世界は再び光の中に甦る……ということだそうです。
これは、イエス・キリストの生誕を、世界の光が最も弱くなる冬至の日に合わせた、今のクリスマスの原型的意味を端的にあらわす行事ですね。*13

9.闇と個

このように……魂の誕生というものは、真の暗闇の中で行われる……と、そのように考えるのが、私は最も自然であると思います。
暗闇の中で誕生した魂は、それゆえに、その暗黒を自身のうちに持つ。そして、その暗黒は、魂の成長とともに徐々に意識されるようになり……魂は、その暗黒のゆえに苦しみ……そして、世界というものを、その苦しみを通して理解していくのでしょう。
『オレはオレだ。オレになれ』という支配原理は、まさにこの暗黒そのものだと思います。それゆえに、それは、「光」として理解される明確な根拠を示すことができない。ただひたすら『オレはオレだ。オレになれ』と叫び、ぼやきつづけることしかできません。
しかし……もし、この暗黒が自身のうちになく、すべてが光そのもので、完全に明解であったら……それは、すべてのものが同一ということです。
『オレはオレだ。オレになれ』という宣言のうちに自己、すなわち、世界の他のすべてとは異なる自己というものが立ち、なにかわけのわからない、なんの根拠もないが、ただ『オレはオレだ』ということだけを頼りにして進んでいくわけです。
ですから……それは、いつかはすべてが明解になって闇は消え去り、世界は光のみとなってしまうのかもしれませんが……しかし、それまでの、いわばモラトリアム期間というのでしょうか、そこには、『オレはオレだ』という闇、そして、その闇によってこそ生みだされる『個』というものが、あちこちぶつかり、試行錯誤しながら萌えあがる……ということになるのでしょう。

10.むすび

「食」をテーマに書いてきましたが、この「食」を問題にするということは、結局、『オレはオレだ。オレになれ』という根拠のない無茶苦茶な理屈に向きあってみる……ということになるのでしょう。
人が口を開けてモノを食べる姿……TVのグルメ番組なんかでは、タレントさんのその瞬間の顔がクローズアップされたりもしますが……これは、実は非常にキワドイ。
「出す」シーンをこういうふうにクローズアップして放映したら、たちまちGO!GO!たるヒナンの渦……となるにちがいありません。
消化器官の始端と末端では、なぜこうも扱いが違うのか……?
二つの命令。
『オレはオレだ。オレになれ』
『notオレは出ていけ』
この間に、いかなる違いがあるというのか……。
あるいはまた、私の前に置かれた皿の上に盛られた食物。
私は、それに、最初の一箸を入れる。
そうすると……この一箸が入れられた時点で、その皿(の上の食物)は、『私のもの』という烙印を押される。たちまちそれは「食べかけ」となり、もう他の人の食物ではなくなる。つまり、自分が一箸入れたものを、他の人にどうぞ、といってすすめることは、ふつうはやりません。*14
しかし、親子とか夫婦とか、ごく近い関係なら話は別です。「もう食えん。食べてチョ」と皿を回すことはいくらもある。
あるいは、大皿に盛られた食物を、会食者が順に採っていく……というときも、このルールは変わります。
<支配原理>の実行を共有する……すなわち、「心の闇」の部分を他の人とある程度共有していく……ということは、実は、人の心の闇がきわめて個的、インディヴィデュアルでありながらも開かれている……他の人の心の闇と交通可能であり、実は、その交通によって支えられているのではないか……ということを示唆します。
すると、出す方はどうか。
出す場合は、出す行為を他の人と共有しつつ行う……ということは、なかなか考えられません。*15 すなわち、入れるよりも出す方が、<個>の縛りはきついのではないかと思います。そして、それゆえに、出す行為は、まったく他と共有することのない個室(闇)の中で秘めやかに?行われます。
「食べる」行為は光の中で……そして、「出す」行為は闇の中で……。
そして、私たちの身体と心の内部には、いまだに光のさすことのない、真の闇が……そこに、在ります。

11.蛇足

再び、『悪魔くん』から。
契約とコーヒーとチョコレートで悪魔くんのいうとおりに働く悪魔のメフィスト*16が、百目の子と一緒に喫茶店で話をしています。*17
ウェイターが注文を取りにくると、メフィストは、コーヒーを注文する。
百目の子(小学生のようなかんじ*18)は、お金というものを持っていないので、なにも注文できません。
やがて、コーヒーが運ばれてくると、メフィストは、ケーキを注文します。百目の子は、当然、メフィストが自分のために頼んでくれたと思います。
やがて、ケーキがくると、百目の子は、『おじさん、ありがとう』と喜びながらそれを手にとろうとする。
と、メフィストの驚くべき言動。
『なんのこと?コレ、ぼくが食べるのよ。』
『ボク、悪い政治家みたいに、人のコト、考えないの。』
そして、メフィストは、失意落胆の百目の子をまったく省みることなく、コーヒーを飲み、ケーキをむしゃむしゃと食い、 『コーヒーもう一つ』
と、おかわりまで注文するのです……。

コメント

*1 『悪魔くん』の実写バージョンというのは、意外に知られていないが、やはり1960年代の終わりころに放映されていた。なんと、モノクロだった。それだけに、かなり雰囲気が出ていて、私は大変な秀作だったと思う。特に、主題歌が傑出していて、『エロイムエッサイムーーー』と呪文のような不思議な単旋律は今でも耳にはっきり残っている。全体として、『ドラキュラ』や『フランケンシュタイン』などのモノクロバージョンの古い恐怖映画を思わせるロマンティッシュな、濃厚な味わいの作品だった。放映局など覚えていないが、どこかで再放送をやったら絶対受けると思う。フィルムが残っていれば……。

*2 VENIはVENIO(来る)という動詞の直接法完了形の1人称単数、VIDIはVIDEO(見る)という動詞の直接法完了形の1人称単数、VICIはVINCO(征服する)という動詞の直接法完了形の1人称単数。したがって、すべて1人称単数の主語であるEGO(私)が省略されている。無論、ここでの「私」はジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)のこと。なお、あるインターネットサイト(www.kitashirakawa.jp/~taro/latin7.html)によれば、関西では、某電気店のCMで、『来た、見た、買うた』というのが有名だそうな……。

*3 元の言葉は『デウス エクス マキナ』(DEUS EX MACHINA  機械仕掛けの神)。元々は、ギリシア悲劇で、物語の筋がこんぐらかってどうしようもなくなったときに、突然舞台に機械仕掛けの神(アポ メカーネス テオス)が登場して、絶対的な力をふるってすべてを有無をいわせず解決してしまう……という、いわば無茶苦茶なシナリオ作法から来ているという。「機械仕掛け」というのは、この神を演ずる役者が、クレーンのような装置で舞台に登場したからとか。このやりかたは、すでにアリストテレスの時代から、一種の「ルール違反」として評価は良くなかったようだが、現在では逆に、科学と魔法が融合した不思議な力として再評価?されているようにも思える。キューブリックの映画の『時計仕掛けのオレンジ』(原題:A CLOCKWORK ORANGE)というタイトルにも、そのような雰囲気は漂っている。

*4 著者名も出版社名も覚えていないが、子供向けの科学啓蒙書だった。著者は非常に変わった人で、「なぜ?」というのが科学の発端であるということを力説していて、子供心に大いに納得・感心した覚えがある。この著者によると、「用意ドン!でみんなと逆方向に走り出したり、郵便ポストにおじぎをしたりという変わった人がいつの時代にもいるものだが、こういう人が“科学の心”を拓いてきた」ということで、この部分には大いに共感した。「とにかく人と変わったことをやりたい」という私の生まれついての傾向性に保証を与えてくれたような気がする、とにかく変な本だった。

*5 「第一身体」(ファーストボディ)という言い方は耳慣れぬものですが、1950年代の終わりに出版された『地軸は傾く』(レクス&レイ・スタンフォード著、松村雄亨訳、宇宙友好協会刊)に載っている言葉です。この本は、いわゆるコンタクティもの(宇宙人との会見者の本)で、現在でいう「ニューエイジ」の思想が満載されており、この当時で、どうしてこんな知識が可能だったのか……という驚愕に満ちた書です(だから、宇宙人に教えてもらった……ということですが)。「第一身体」とは、この書に出てくる宇宙人が使っている言葉で、われわれの肉体を指します。そして、「第二身体」(セカンドトボディ)が宇宙船なのだとのこと。つまり、宇宙船は単なる乗り物ではなく、それを「着た」宇宙人が、自分の意のままに操ることのできる「第二の身体」であるというわけで、今のアニメでいう「モビルスーツ」のアイデアは、この「セカンドボディ」に非常に近いものがあります。

*6 映画『マトリックス』三部作の、たしか第二作(マトリックスリローデッド)か第三作(マトリックスレボリューションズ)だったと思いますが、主人公ネオの敵役のエージェント・スミスが、『みんなオレになる』といっていました。エージェント・スミスはプログラムで、マトリックスの中では人間もプログラムだから、エージェント・スミスに上書きされた人間は、みなエージェント・スミスになってしまう。でも、考えてみると、これはコンピュータープログラムの世界だけではなくて、この物理的世界においても、「なにかを食べる」という行為は、この「プログラムの上書き」に似ていないだろうか。つまり、「食べる」という行為を「上書き」と考えれば、「食べられたもの」は、「食べるもの」に上書きされて「食べるもの」になってしまうわけです。ですから、「食べ物」の中にウィルスが入っていたりすると、「食べた」つもりが逆にウィルスに「上書き」されて、食べた人が内部からどんどんウィルスに書き変えられていく……。恐ろしいことです。

*7 デカルト『方法序説』の第三部に、このことが書かれています。

*8 『J.S.BACH / PRELUDES AND FUGES VOL3 / JOHN LEWIS』PHILIPS PHCE-3029に収録。

*9 この曲が、第13番という番号をふられているところからすると、数というものに一種マニアックなこだわりを持っていたバッハのことですから、意識して『心の闇』を描こうとした……ということも考えられるかもしれません。しかも、一見単純な明るい光を纏わせて……。もしそうだとすると、このバッハの意図を見破った?ジョン・ルイスの眼力(というか耳力)はすごいもの……ということになりますね。……深読みしすぎかもしれませんが。なお、この曲の冒頭と終結の嬰ヘ長調という調については、次のような記述があります。(『J.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集−作品と演奏について』ヘルマン・ケラー著、竹内孝治/殿垣内知子共訳、音楽の友社、1995年第5刷のP.92)『暗く重いf-mollのフーガの荘重さのあとに、ここでは、われわれの音楽の中で通常使われている調のうちで、もっとも♯の多い調の、優しさと穏やかな光が、われわれを取り囲む。Fis-durによってロマン派の作曲家(ショパン、シューマン)は、情緒豊かな音楽を作曲した。ベートーヴェンは、op.78のソナタで、無邪気に戯れた。モーツァルトは、まったく使用しなかった。ハイドンは、彼の弦楽四重奏曲op.76-5、Hob.Ⅲ:79(ラルゴ・カンタービレ・エ・メスト Largo cantabile e mesto)で憂鬱な荘重さの表現に用いた。またスカルラッティ(Scarlatti)は、彼の2つのFis-durのソナタで、優雅な表現に使用した。しかし、だれも、バッハのようにその香りを捕えることができなかった。』

*10 曲の冒頭に、右手に三度で動く上昇音型の主題(黒鍵のみで弾かれる)が提示され、 すぐに左手が同じ音型を受けるが、そのあと、左手にゆっくりとした下降音型が現われる。右手は左手とシンコペーションの関係になり、さまようような動きを見せるが、よく見ると、右手にも分散しつつ下降音型が出現している。ジョン・ルイスは、バッハのこの上昇音型(主題)と下降音型(主に左手)を巧みに用いて(音型に案内をさせて)、15小節中央で、嬰ニ短調から嬰イ短調へ転調する瞬間をフッととらえて、魂の地下室へ降りていく扉のカギを開く。

*11 映画『2001年宇宙の旅』のラストシーンは、封切り当時としては、驚異的に「見たこともない」ものでした。美術をやっている者の一つの悲願として、「見たこともない」ものをお目にかけたい……というのがありますが、この『2001年宇宙の旅』のラストシーンを考えてみると、「見たこともない」ものというのが、けっして視覚の問題だけではないということが良くわかります。……封切り当時、この映画は、「家族で楽しめる宇宙旅行SF映画」として宣伝されたので、ませた子供の中には、バカにして見に行かなかった人々もあったようです。(私は、無条件に面白そうということで見にいった)……後に、そういう子供であった一人の方が、なにかの雑誌にそのことをかいておられて、封切り当時、バカにして見にいかなかったのはかえすがえすも残念であった……と。なぜかといえば、この映画は、封切り後二年くらい?各地で上映されたあと、再封切りまで二十年くらい?日本では上映されなかったからです。この映画のラストシーンは、当時から「謎」として関係者?の間では話題になっていたが、そのうちに、世はヒッピーブームとなり、あの「見たこともない」ラストシーンが伝説となって世界中のヒッピーたちに語り継がれ……見た人が少なかっただけに、それはもう、一つの神話にまでなったとか……。先程の、かつてバカにした子供であった人も、なんとかして見たいと思っていたが、日本ではやってない。それで残念無念と思っていたが、ついにインドの映画館で見ることができて感無量……だったそうです。今はもう、どこのレンタルビデオ店でも見ることができるのですが……。

*12 京都の上賀茂神社と下鴨神社の二社は、京都の地(山城国)の地主神を祀っていて、下鴨神社の二柱の祭神の一方の賀茂建角身命(かものたけつぬみのみこと)は別雷神(わけいかづちのかみ)の母方の祖父であり、もう一方の玉依媛命(たまよりひめのみこと)は別雷神(わけいかづちのかみ)の母といいます。つまり、上賀茂神社の祭神である別雷神(わけいかづちのかみ)の母と祖父が下鴨神社に祀られていて、この両社は、かつてこの地を支配していた賀茂一族の祖を祀る祭祀拠点であり、後からこの地に都を定めた朝廷は、賀茂一族の神の降臨の儀式に、天皇の名代を参拝させて賀茂一族との良好な関係を保ってきた……それが、現在の葵祭に続いている……と考えられます。主祭神である別雷神(わけいかづちのかみ)は、その名が明瞭に示すとおり、降臨すること自体が存在理由みたいな(つまり落雷)自然神そのもので、ふだんは天空にあり、祭りの一定期間だけ降臨して社殿に留まりますが、この存在形態は、日本の神々の非常に古い形で、日本の地の人々は、神というものを、一種の「懸かってくる力」としてとらえていたことが良くわかります。しかも、その力は、今の人が考えるような百%の自然力ではなく、自然力と人格的存在がないまぜになった、『異世界の存在者』で、だからこそ、その降臨、すなわち、異世界の神が、この世界に魂として誕生すること-----御阿礼の神事-----は、一連の祭祀中最も重要な秘儀として、衆目を断って暗黒のうちに行われるのでしょう。

*13 このお話しの裏をとろうと思っていろいろ調べましたが、ついにわかりませんでした。……これに一番近いのは、カトリックで、復活祭に先立つ聖週間の水、木、金曜日の深夜に行われる『ルソン・ド・テネブレ』(暗闇の朝課)で、このために作曲された曲としては、トマス・タリス、フランソワ・クープランあるいはマルカントワーヌ・シャルパンティエのものが良く知られています。この『ルソン・ド・テネブレ』では、最初13本のロウソクが灯されていて、それが聖歌とともに順番に消されていき、ついに教会の中が真っ暗闇になる……ということで、ヴィオールの名手のマラン・マレとその師のサント・コロンブを描いたフランス映画『めぐりあう朝』の中にもそのシーン(らしき)場面が出てくるといいます(私は、この映画は見たが、記憶にはありません)。ちなみに、「テネブレ」は「闇」で、ラテン語のtenebrae(闇・女性複数形)が原型でしょう。

*14 学生時代、京都の都ホテルで、宴会のボーイのアルバイトをやっていました。都ホテルは京都でも一流とかで、その料理もなかなか豪華でしたが、その宴会で、しばしば、急に欠席とか口に合わないとかで、コース料理が一皿丸々残ることがあります。すると、その皿は、適当に分けて、われわれの胃袋に収まる……という、これは一種役得のようなささやかな楽しみでした。しかし……一口、二口食べただけで残す……という人も良くいます。さすがにその皿にはみな手をつけなかったが……けっこう長くやっている洗い場担当の某さん(中年のおじさん)は、「それよこせ」といって、平気で平らげていた。そのとき、私の心の中に、明確な一線が引かれるのを感じました。……おそらく、この行為は、『オレはオレだ』ということの根幹に関わってくる行為と思います。ここを越えると、次のラインはおそらく『食人』でしょう。

*15 まんがなんかで、男が二人並んで山河をバックに豪快に放尿しつつわっはつは……という光景も見たように思うが、それでもやはり「出すモノ」は二人別個です。「入れる」場合のように「同じモノ」を「出す」には、手術で二人の泌尿器系統を接続する等の、かなり異常な手法が必要でしょう。

*16 ここでのメフィストは、鼻の長い天狗のような顔で描かれていますが、これは、伎楽の『抜頭』(ばとう)面から採られた造形にほぼまちがいないでしょう。なお、最も古いバージョンの『悪魔くん』(貸本マンガ版)と、後にリメイクして連載された『千年王国』では、この顔は、悪魔くんの12使徒の一人であるヤモリビトのものとなっています。『悪魔くん』のTVドラマ(実写バージョン)では、かなりマンガに近いメイキングが施されてはいたが、さすがに鼻はあそこまで長くなかったように記憶しています。

*17 原本が手元にないので、以下の情景描写や会話内容の裏はとれていません。ほぼこんなものであったという程度ですが、メフィストの言葉は大体正確であると思います。

*18 百目の子は、親の百目が「暗黒界の大ボス」的雰囲気のキャラ(映画『スターウォーズ』シリーズのジャバザハットに目を一杯くっつけた感じ)であるのに対して、実にかわいい10才くらいの男の子のイメージで描かれている(実際に、悪魔くんと一緒に小学校に通ったりもする)。むろん、身体の襞にはすでにたくさんの目が嵌めこまれているのだが……。