「食」について/コメント 10〜12

*10 曲の冒頭に、右手に三度で動く上昇音型の主題(黒鍵のみで弾かれる)が提示され、 すぐに左手が同じ音型を受けるが、そのあと、左手にゆっくりとした下降音型が現われる。右手は左手とシンコペーションの関係になり、さまようような動きを見せるが、よく見ると、右手にも分散しつつ下降音型が出現している。ジョン・ルイスは、バッハのこの上昇音型(主題)と下降音型(主に左手)を巧みに用いて(音型に案内をさせて)、15小節中央で、嬰ニ短調から嬰イ短調へ転調する瞬間をフッととらえて、魂の地下室へ降りていく扉のカギを開く。

*11 映画『2001年宇宙の旅』のラストシーンは、封切り当時としては、驚異的に「見たこともない」ものでした。美術をやっている者の一つの悲願として、「見たこともない」ものをお目にかけたい……というのがありますが、この『2001年宇宙の旅』のラストシーンを考えてみると、「見たこともない」ものというのが、けっして視覚の問題だけではないということが良くわかります。……封切り当時、この映画は、「家族で楽しめる宇宙旅行SF映画」として宣伝されたので、ませた子供の中には、バカにして見に行かなかった人々もあったようです。(私は、無条件に面白そうということで見にいった)……後に、そういう子供であった一人の方が、なにかの雑誌にそのことをかいておられて、封切り当時、バカにして見にいかなかったのはかえすがえすも残念であった……と。なぜかといえば、この映画は、封切り後二年くらい?各地で上映されたあと、再封切りまで二十年くらい?日本では上映されなかったからです。この映画のラストシーンは、当時から「謎」として関係者?の間では話題になっていたが、そのうちに、世はヒッピーブームとなり、あの「見たこともない」ラストシーンが伝説となって世界中のヒッピーたちに語り継がれ……見た人が少なかっただけに、それはもう、一つの神話にまでなったとか……。先程の、かつてバカにした子供であった人も、なんとかして見たいと思っていたが、日本ではやってない。それで残念無念と思っていたが、ついにインドの映画館で見ることができて感無量……だったそうです。今はもう、どこのレンタルビデオ店でも見ることができるのですが……。

*12 京都の上賀茂神社と下鴨神社の二社は、京都の地(山城国)の地主神を祀っていて、下鴨神社の二柱の祭神の一方の賀茂建角身命(かものたけつぬみのみこと)は別雷神(わけいかづちのかみ)の母方の祖父であり、もう一方の玉依媛命(たまよりひめのみこと)は別雷神(わけいかづちのかみ)の母といいます。つまり、上賀茂神社の祭神である別雷神(わけいかづちのかみ)の母と祖父が下鴨神社に祀られていて、この両社は、かつてこの地を支配していた賀茂一族の祖を祀る祭祀拠点であり、後からこの地に都を定めた朝廷は、賀茂一族の神の降臨の儀式に、天皇の名代を参拝させて賀茂一族との良好な関係を保ってきた……それが、現在の葵祭に続いている……と考えられます。主祭神である別雷神(わけいかづちのかみ)は、その名が明瞭に示すとおり、降臨すること自体が存在理由みたいな(つまり落雷)自然神そのもので、ふだんは天空にあり、祭りの一定期間だけ降臨して社殿に留まりますが、この存在形態は、日本の神々の非常に古い形で、日本の地の人々は、神というものを、一種の「懸かってくる力」としてとらえていたことが良くわかります。しかも、その力は、今の人が考えるような百%の自然力ではなく、自然力と人格的存在がないまぜになった、『異世界の存在者』で、だからこそ、その降臨、すなわち、異世界の神が、この世界に魂として誕生すること-----御阿礼の神事-----は、一連の祭祀中最も重要な秘儀として、衆目を断って暗黒のうちに行われるのでしょう。