自分は、自分の中から出ることはできない。 自分の身体が、たとえ地球上のどこに行こうとも、自分は自分の身体の中に閉じこめられたままで地球の上を回る。 世界は、どこで限定されるのか。 人間にとって、「世界のはて」はどこになるのだろうか…… 漠然と、こんなことを考えながら、年をとりました。 数年前からちょっとずつわかってきたことは…… 人間の身体も、思考も、実は最大限いって地球まで。 「地球」という惑星が、実は限界になってるんじゃないだろうか……ということでした。 いろんな思想や哲学においては、「思惟の限界」というものを、論理の限界に求めたり、言語の限界に求めたりしているように思います。 あるいは、思惟の限界みたいなものはないのだと……そういう風な考え方もあるように思います。 しかし……たしかに、「実体」に対応しない思惟は、限界を持たないようにも見えますが、思惟が「実体」に対応しないと意味がないという考え方からするなら、「思惟の限界」は明瞭にあるように感じられます。 私は、その限界は、「地球」ではないかと思いました。 しかも、概念的な「地球」ではなく、「実体」としての地球。これが、人間の肉体においても、思惟においても、「限界」になってくるのではないかと感じました。*1 そこで、数年前から、このことについていろいろと考えて、この点を反映した作品づくりが可能なのではないか……と模索を続けてきました。 模索の過程において、少しずつわかってきたことがあります。 それは……たとえば、現在、エコロジーとか環境問題なんかで「地球」というものを、人類や他の生命がそこに生きる大きな「環境」として捉える見方がもうすでに定着しつつある感がありますが……こういう考え方に対する、なにか根源的な意味でのクエスチョンです。 こういうものは、結局「鎖の輪」*2をとばしているのではないだろうか。 これが、私の根本的な疑問でした。 要するに、「地球」や「環境」を考える視点が、最初から、従来の「思惟に限定なし」という非常に抽象的な見方に立っている……その点において、最初から飛躍した場所から出発しているので、出てくる結論も、「実体」から切れたものとなってしまうのではないだろうか……。 私の心の中では、そういう疑問が、少しずつ大きくなってきました。 そこで思ったのは、ふたつのことです。 「実体としての地球」は、いったいなにからできているのだろう? そして、その「実体としての地球」と自分との関連は、どういうところにあるのか? このふたつの問題です。 最初の問題を考えてみるために、私は、「地球のエレメント」というものをさぐってみたいと思いました。 この世界のものごとは、すべからく「エレメント」に依って、成り立っている。 この場合、「エレメント」とは、単に「要素」という意味ではなく、ヘーゲルが用いているような意味、つまり、「水は、魚にとってエレメントである」というような意味です。 ある種の溶液が、金属メッキにとってエレメントとなっている……そういう意味なのかもしれませんが、そこで「地球のかたち」が現われ「地球の山河」が成り立ち、そして「地球の生命」が生かされ、さらに「人類の文明」ができてくる……そのための「地球のエレメント」は一体なんだろうか……それに興味を持ちました。 私には、この「地球のエレメント」は6つであるように思えました。 具体的な内容が出てくる前に、この「6つ」という数が出てきたのです。 現代的な考え方であるならば、まず「内容」があって、それが全部現れたときに、「あ、いくつだった」とわかる……そういうことになろうかと思うのですが、私は、その考え方に立つ限り、従来のような「実体から離れた」思考法に陥ってしまうのは不可避のように思えました。 まず、数。内容はあと。 なぜ、こうすると「実体」から離れることがないのか……その点の説明は難しいのですが、この「思考方法の転換」はとても大事なことのように思えます。 「思考」は、枠なしで恣意的に考えてよいといわれたとき、「実体」から離れる……近代思考は、その点において、たいへんに大きなワナに陥っていたように思います。 だから6つ……なぜ「6」であるのか、そこはわかりませんが、まず、この「6」であることが必要……ここを確信することができたとき、私は、なにか「最初の鎖の輪」を正しく置くことができた……と、そう感じました。 そこから……「6つのエレメント」を「2つ組」×3として考えていきました。 この「2つ組」ということも、「実体」から離れないための必須の条件でした。 私は、まず、地球自身の形状を司る2つのエレメントを考えてみました。 地球は丸い。そして、その丸さ、球であることの要素、エレメントはなにか…… そして得た2つのエレメントは、 ラジアル、と ジオデジック ということでした。 「ラジアル」は、「放射線」で、これは地球の中心から3次元の各方向に向かって放射される直線の集合体として現わすことができます。これは、円でいうなら「半径」(径方向)ということになります。*3 これに対して「ジオデジック」は「測地線」で、同じ長さの「ラジアル」の端点の集合として形成される球面における「大円」(周方向)ということになります。つまり、地球を例にすれば、地球表面の任意の2点を連結する距離が最小になる線のことで、航空機なんかは燃料節約のためにこの「ジオデジックライン」に沿って飛ぶことが多いようです。 地球が球である以上、その最も根源となる「かたち」を決定しているのは、この「放射線」(ラジアル)と「測地線」(ジオデジック)である……この2つのエレメントを見いだしたとき、なんかこれからの作品づくりの基礎ができたような気がしました。 その次に私が考えた「2つのエレメント」は、「地球の身体」ともいうべきものに関わってくる組でした。 ラジアルとジオデジックは、物理的な身体の以前の「フォーム」に関するエレメントの一組でしたが、そうすると、次に、この「かたち」に「からだ」を与えなければならない…… 「地球の身体」とは、なんだろう…… そうして考えていった結果、次の2つのエレメントに至りました。 砂、と 水。 砂は、地球の鉱物的な身体にあたります。コアからマントル、そして地殻にいたるまで……このすべてを「砂」という言葉で代表させてみました。 すると……これに対して、地球の表面を覆い、一部は大気の層にまで浸透し、地球上の生き物の生命を養っている「水」……これが、自然に対応するエレメントとして現われました。 「砂」と「水」。 これは、地球の身体であると同時に、地球の身体から生まれた「生命」をかたちづくる要素ともなっています。*4 地球上の「生命」は、われわれが思っているほど実は独立性が高くはなく、本来は「地球の身体」と分離しがたい一体になっているのではないか……と、そのように考えられるようになってきました。*5 そうすると……最後に残されるのが、「人類」……この、「人類」というやっかいな存在です。 むろん、人類も、地球の一員である限り、他の生命と同様、地球と一体の身体を持っています。 そういう意味では、今までの4つのエレメント、「ラジアル」と「ジオデジック」、そして「砂」と「水」で律することができるように思います。 しかしながら、やはり「人類」には、そして人間のつくりだした「文明」には、それだけではすまない新たな「要素」が付け加わっている…… とすれば、その「要素」とは、いったいなんだろう…… これを考える日々が続きましたが……最終的に得た結論は、 ゲニウス・ロキ、と 人 この2つのエレメントでした。 ゲニウス・ロキは、ラテン語で、訳せば「土地の霊」とか「土地の精」、あるいは、もっと平たくいうなら「地の神」みたいなことになるのかもしれませんが……要するに、特定の土地を守る霊みたいな存在です。日本だと、こういう霊をお祀りしたところが「神社」になるわけですが……世界中どこでも、こういった「土地の精霊」をお祀りする場所はあって、そこは神聖な場所として、地元の人からは特別視されているようです。 私が、なぜ、この「ゲニウス・ロキ」を必要としたかといいますと……「人」と「自然」は、そのままではどうやっても結びつくことはないだろうと思ったからです。 前に、人間の思惟の限界について書きましたが……人が、自分のまわりの土地を単に「自然」と考えている限りにおいて、人は、無意識的に「思考の限界」を超えてしまっていると思うのです。……このことは、よほど偉大な?思想家でも哲学者でもワナに陥ることであって……「自然」という概念は、実は自然ではなく、人間が脳の中でつくりだした高度に抽象的な概念である……このことへの認識が欠けたままで踏み出された環境問題に対するいろんな思惟や対策は、結局最初から「実体」を離れた抽象的な概念にすぎない「自然」を相手にしているために、思考のワナにはまって全く実体とはかけ離れたところに漂っていってしまうのです。 「自然」ではなく、われわれのまわりを取り巻いているのは、地球上の特定のロケーションにある「山河」です。 そして、その特定の「山河」には、山河の総意として、人の思惟に対応できるかたちをとることのできる特定の「ゲニウス・ロキ」が、かならず存在します。 そういう意味からすると、「ゲニウス・ロキ」は、人の思惟と、山河としての自然を仲介する存在であって、ここを通して、人は、その土地の山河の「すがた」を理解し、「思惟」というまったく異質なものが、その土地の山河の中に受け入れられていくように、折り合いをつけていけるものであろうと思います。 こうして、6つのエレメントのすべてが出揃いました。 1. 放射線(ラジアル) 2. 測地線(ジオデジック) 3. 砂 4. 水 5. ゲニウス・ロキ 6. 人 この6つのエレメントを得たとき、私は、最初の作品として、まずこの6つのエレメントをお披露目するための小さな立体作品を造りました。 それが、6つのエレメントを夫々試験管の中に閉じ込めて、全体を本のかたちにまとめた『6つのエレメント』という作品です。 これで、一連の作品の基礎はできたと思いました。 したがって、次に考えたのは、この6つのエレメントと自分との関連です。 次の展開は、この方向になると思いました。 先に、私は、まず「ふたつの問題」を考えたと書きました。 「実体としての地球」は、いったいなにからできているのだろう? そして、その「実体としての地球」と自分との関連は、どういうところにあるのか? このふたつの問題です。 「実体としての地球」が6つのエレメントからできているとするならば、ではその「6つのエレメント」と自分は、一体どういう関係にあるのだろう…… この問題の解決として、次の作品はできるはずであると思いました。 そこで、まず、最初の2つのエレメントと自分との関連を考えてみました。 私は、今、地球表面の特定の地点に立って(座って)、作品を造ろうとしています。 そこは、私の家です。 地球上には、「その箇所」は、一カ所しかありません。 そして、その箇所を特定するための座標系は、東経何度、北緯何度というかたちで整えられています。 一方……地球上の任意の箇所、私の家から見て、いろんな方向に位置する任意の箇所も、すべてが座標系の中にその場所を特定できます。 地球は丸いので……私の家から離れれば離れるほど、地球の中心と私の家を結ぶ線と、その地点と地球の中心を結ぶ線がなす角度、つまり、私から見た「傾き」は大きくなっていきます。 そして、地球の反対、つまり対蹠点に立つ人は、私から見れば完全に倒立して立つことになる…… 私の家と、地球上の任意のポイントを結ぶ最短の線はいわゆる「大円」の弧の一部となり、それは、「私の家からそのポイントまでの最短距離」となります。 そして、この「最短距離」と一義的に連動するのが、地球の中心と私の家を結ぶ線と、その地点と地球の中心を結ぶ線がなす角度(私から見た傾き)ということになります。 この角度は、「最短距離」すなわち「測地線」が地球の大円の4分の1となったところで90°となり、その地点に立つ人は、私から見れば横倒しになっていることになります。 そして、「最短距離」が地球の大円の2分の1までくると、この角度は180°すなわち、私から見れば、完全に倒立した位置になります。 したがって、「2点間の距離」(私から見た最短距離)か、「2点間の角度」(地球の中心に対してなす角度・私から見た傾き)がわかれば、この測地線(距離・ジオデジック)と放射線(角度・ラジアル)は、作品として具体的な表示が可能となります。 ところが……ここで、最初の大きな壁に突き当たりました。 「2点間の距離」の算出方法がわからない…… 「2点間の角度」の算出方法も、同じくわかりません。 簡単に考えていたのですが、実際にはどうやってそれを計算するのか……理科系ではない私にとっては、これは大きな山でした。 解決は、ネットによってもたらされました。 これはおそらく球面三角法の問題にちがいない……と見当をつけた私は、この算出方法を、そういうことを教えてくれるサイトで聞いてみることにしました。 すると……質問して二、三日すると、ドンピシャの答があったのです。 その答えは、「2点間の角度」の算出を教えるもので、これはやはり球面三角法の問題であり、次の公式が既にあるというものでした。 cos(c)=cos(a)・cos(b)+sin(a)・sin(b)・cos(C) ただし、aは北極と私の家との角度 bは北極と求めるポイントとの角度 Cは私の家と求めるポイントとの経度の差 そしてcが、求める2地点間の角度 cは、コサインのかたちで出てくるので、これを角度に直すためには、アークコサインを求める必要がありますが、この公式を教えてくださった方は、親切にも、関数電卓のサイトまで教えてくださいました。 おかげで、 私の家の経緯度 求めるポイントの経緯度 のふたつがわかれば、「2点間の角度」つまり、地球の中心に対して私の家と求めるポイントがなす角度が算出できます。 そして、「2点間の距離」はこの角度から一義的に算出可能です。 これで、私の家と求めるポイントの 放射線(ラジアル)と 測地線(ジオデジック) のふたつが確定できることになりました。 そうすると、残る問題は、私の家の経緯度と求める地点の経緯度をどうやって知るか……ということですが、これは、グーグルの地図サイトで、相当程度詳しく表示できることがわかりました。秒の小数点の何桁まで出るので、かなりの精度です。航空写真で自分の家を特定すれば、その地点の緯度経度が画面に表示されます。……ちょっと庭先に出ると、それだけで秒の小数点の下の方が変化していくので、これはもうおそるべきものであるということがよくわかりました。地球上の衛星写真が撮れるところはすべて、こうやって監視されている……のですね。 求める先の地点の経緯度も基本的にはこのやり方で知ることができますが、そこが良く知られた場所だったりすると、ウィキペデイアに経緯度が詳細に書いてあったりします。日本語版のウィキペディアでは経緯度が省略されている場所でも、英語版を見ると必ず表示されているので助かります。(ウィキペディアの日本語版は、まだまだ充実度が足りないなあと思いました。余分なことですが) これで算出方法がわかったので、とりあえずは、この作品を最初に展示させていただく予定の東京のトキ・アートスペースさんと私の家の間の距離と角度を出してみることにしました。 理系の方からすれば、ごく単純な計算になると思うのですが、そこは文系の悲しさで、なんども間違えたり後戻りしながらようやく計算を終えてみますと…… トキさんのところと私の家の角度と距離は 放射線(角度)……2.060° 測地線(距離)……228.582km ということになりました。 つまり……私が自分の家を車で出発して東名から首都高に入り、トキさんのギャラリーに到着する……その過程の間に私の身体は徐々に傾き、トキさんのギャラリーに立った時点で約2°傾いている……と、そういうことになるわけです。 そして、私の家との間にある最短距離(地球の大円の一部)は約228.6kmと、そういうことになるわけです。 この計算をしてみて、私ははじめて、自分の今いるところとトキさんのギャラリーの間が、この同じ惑星地球の上にある2つの地点として、具体的に認識できたような気がしました。 generalというか、 allgemeine というのか……なにか一つの統一的な基準が全地球表面を覆っていて、その細かい網にすべては網羅される……ある意味、地球的視野をはじめて得られたような気がしました。 そこで、この方法で、私の家と、自分が気になっている地球上のいろんな場所の放射線(角度)と測地線(距離)を出していけばいいと思いましたが……問題は、その「計算」です。 公式に当てはめて関数電卓を打つだけとはいえ、これがなかなか大変な作業……で、このやり方ではいつになったら作品としてまとめられるだけの地点をリストアップできるのか……だんだん心配になってきました。 そして……この場合も助けてくれたのは、やっぱりネットでした。 なんと……ネットの中に、ズバリ、経緯度を打ち込むだけで「2地点間の距離」を自動的に算出してくれるサイトがあったのです。 これで、操作はすごく楽になりました。 グーグルやウィキペディアから経緯度を拾って、このサイトの窓に打ち込むだけ……で、「2地点間の距離」が出るので、あとは「角度」を計算するだけ…… ただ、このサイトからの算出結果は、先に「公式」に当てはめて計算した結果と、小数点の下位でわずかに差が出ましたが、それは算出の元になった地球半径の設定の差であると考えられます。 ちなみに、このサイトでは地球半径を6378.137kmとして計算しており、これによると、私の家とトキさんのところとの角度と距離は 放射線(角度)……2.060° 測地線(距離)……229.329km ということになります。 本来は、公式の出てくる理由までちゃんと知りたいところですが……そこは、私がネットを検索した範囲では出てきませんでした。 もし出ていたとしても、そこのところは理系の人にしかわからないのかもしれません。 ともかく「結果だけ」になってちょっと土台の不確かな感じはつきまとうのですが……とりあえずは先の「2地点間距離算出サイト」を用いて、自分の家と気になるポイントの間の距離と角度を出してみることにしました。 「放射線」と「測地線」の1組のエレメントについては、これで解決のメドが立ちました。 次には、地球の身体である「砂」と「水」の問題ですが……これについては、「砂」は、対象地域の山や半島や台地や地質など 「水」は、対象地域の川や湖や池や湾や海など ということで、これもネットの助けを借りていろいろと調べていきました。 そして、最後に「ゲニウス・ロキ」と「人」。 「ゲニウス・ロキ」は、日本では神社に祀られている神様や、山の神や海の神、川の神、湖の神……ということになります。 外国についても、やはり同じように、その地で祀られている聖者や精霊や……ということになるのですが、外国では日本のように「自然」そのものをお祀りすることが少ないようなので、適宜、私自身にとって、もっとも「そうである」と考えられるものを選びました。 現時点で不明な場合はわからないままにしています。 「人」は、ケースによってさまざまですが、実在する人物の場合もあれば、その地を舞台にした小説なんかに登場する架空の人物の場合もあります。 あるいは、私の知っている人の場合もあれば、まったく知らない人である場合もあります。 これもやはり、私にとっていちばんふさわしいと思える人を選びました。 この項目でも、現時点で不明な場合はわからないままにしています。 地点の選択については、あくまで「私から見て」という点を重要視しました。 つまり、あくまでも「私」という実体と、地球上のいろんなポイントのからみを出してみたかったわけで……その点では、最初に挙げた「2つのポリシー」はどこまでも貫徹させています。 これは、要するに「パーソナル地球シュミレータ」の試みであり、これによって、「地球の身体」という実体が、「私」という主体を通じて明らかになってくるものであると考えます。 昔のSFでは、21世紀以降は人類が「星への飛躍」を実現している姿として描かれている例が多いように思います。 しかし、もう21世紀になってしまった今としては、その点はまったく外れてしまったなあ……と思わざるをえません。 人間が月まで行ったのは1969年のことですが、21世紀に入って10年もたってしまった今という時点においても、まだ人類は月より遠くには行っていない。 それどころか、今の技術では、もう一度月に行くことさえできないかもしれません。 人類の「宇宙力」は、明らかに退歩しています。 そして、これは、「宇宙力」ばかりではなく、人類のさまざまな面において現われている現象だといってもいい。 私の個人的に受ける感じでは、「人類力」は、1969年アポロ11のときがピークで、その後はどんどん落ちてきているように思えます。 アポロ11の1年前に公開された映画『2001年宇宙の旅』。 この映画においては、2001年にはすでに月に基地ができており、人類は、木星軌道を目指してディスカバリ号を飛ばしていた。 そして、この外惑星探査船に搭載されていたのがHAL9000という人工知能でした。 この人工知能の分野においても……人類力はあきらかに落ちてしまっています。 この映画がつくられた1960年代の終わりには、2001年には、これくらいの人工知能はできているだろうという設定でした。 しかし……スパコンの計算速度がいくら早くなっても、自分で考える(Heuristic ALgorithmic)コンピュータは、未だにメドさえたっていない。 かわりにできたのは、地球上を覆いつくす「ネットの網」でした。 これは……「人類力」の限界と変性を如実に現わしたできごとだったと思います。 自分で考えるコンピュータ、つまり「人工知能」は、ある意味、非常に19世紀的な問題意識の系統上に妄想されてきた技術体系であるように思います。 そして、それは、さらに遡れば、錬金術の夢……ホムンクルスの生成、生命を人間の手で作り出すこと……この、壮大な「人類力」の一つの結晶のような夢想であったとも思われます。 しかし……「宇宙旅行」と同じ時期に、この技術も、実はピークを迎え、後は後退する一方……そして、かわりに登場した技術が、「個の実体」を克明に反映するネットワークとパーソナルコンピュータの結合……コンピュータ技術の分野においては、すでに「人類の普遍的な夢」はとっくに放棄されて、「より実体を反映できる技術体系」の方にシフトしていったように考えられます。 要するに、「地球をこえられない」ということがわかったのが、20世紀後半の「人類力」の挑戦とその限界であった。 おそらくは、これに「原子力」の問題も含まれてくると思います。 そういう意味では、「原子力」も、普遍的な世界に生きられると妄想した「人類力」の哀れな姿だったということができるかもしれません。 「普遍」を追求した人類の「誇大妄想」は、今、まことにローカルな「場」からはじまる「放射能汚染」という、限りなく膨れ上がる「妄想の果実」を受け取る時期に入ってしまったと思います。 そして……こういう「一連の結果」によって、人類は、これから「人類力の妄想の結果」を慌ただしく味わう時期に入った。 それはまた、人類の頭脳の妄想が、結局は「地球という実体」を絶対に越えられないことを徹底して悟る……そういう「貴重な時期」が、もう始まっていることを示しているものと思います。 この時期において、一人の作家がアート作品をつくっていく「意味」のようなものも、また、意識的に、あるいは無意識的に、問われ続けているのだと思います。 そして、その答は、これから創作を続けていく作家の一人一人が、「自分の場」で、見つけていくことになるのでしょう。