夢見る脳細胞−タミフル体験から

『infans』第14号に収録

春先に、インフルエンザに罹りました。生まれてはじめての体験でしたが……そのとき、もう一つ、生まれてはじめての体験。うわさのオクスリ、タミフルを飲みました。

タミフルを飲んだ、主に十代の男の子が、そのあと異常行動をとった……という事例がたくさん報告されているようです。マンションの高層階から飛び降りたり、道に走り出ていったりとか……
で、自分はどうなるんだろう……と、恐怖なかば、期待なかばで高熱にうなされていたのですが……そこで、現われてきた現象。

とにかく考える。
ぐるぐる、ぐるぐると……ろくでもないことをたてつづけに考えて、脳が止まりません……というより、暴走をはじめて、その苦しいこと苦しいこと……もういやだ、考えるのをやめて眠りたい!と思っても、暴走脳はそれを許さず、ますます過激にヒートアップして、考える、考える……結局、高熱が続いた3日間で、一生考える分を考えたような感じでした。

それだけ考えれば、かなり賢くなりましたか?……ということですが、それは全然だめでした。というのは……高尚な哲学問題でも考えれば、多少は賢くなったかもしれませんが……考えるのは、実にくだらないことばかりで……もう、あとから省みれば、よくあんなバカなことを……と感心するくらいくだらないことばかりをぐるぐると考え続けていました。

一例を挙げますと……インフルエンザに罹る少し前に、テレビで『ラストサムライ』という映画をみました。トム・クルーズ主演で、渡辺謙さんがアカデミー助演男優賞を貰いそこねたとかいうあの映画ですね。
この映画、実は、封切りのときに映画館で見て、今回またテレビで見て、ある程度印象に残っていたのでしょうが……この、『ラストサムライ』が出てきたのです。
といっても、『ラストサムライ』のシーンの回想とか、あるいは感想とか……そういうあたりまえの出かたじゃなくて、実におかしな現われ方でした。

私の止まらない脳細胞たちは、まず、この映画の全体を細かいパーツに分解していき……次に、その各パーツを機械装置に置き換えはじめました。そうすることにより、この『ラストサムライ』という映画は、全体が、複数の細かい機械装置からなる、巨大な複合機械装置として再構成されていきます。ただし、『ラストサムライ』という映画が、全体として首尾一貫した構成を有する<一つのもの>であったように、機械版『ラストサムライ』、つまり私の頭の中で組み上げられた『ラストサムライマシン』も、やっぱりまとまった一つの機械装置として……一定の構成と作用効果を有する機械装置として現出します。
そして……ここからが奇妙なところなのですが、私の暴走脳は、映画『ラストサムライ』を機械装置『ラストサムライマシン』として組み直しただけでは満足せず……さらに考えに考えて、今度は『ラストサムライマシン』の方を、それ独自のものとして組立直しはじめます。
つまり……車好きの人が、市販のなんらかの自動車をベースにして、エンジンや足回りや内装や外装や……と、無限に改造を重ねていって楽しむように、私の脳も、完成した『ラストサムライマシン』を再び分解し、各パーツを別の種類に取り替えたり、接続方法を変えたり……と『ラストサムライマシン』の徹底的な改造を、それこそ無限のヴァリエーションでやり始めるのです。
そして……本人は、もうへろへろになって「寝させてくれー」と叫んでいるのに、それをまったく無視して……『ラストサムライマシン』の改造版がある程度完成しますと、今度はそれを、もう一度映画のストーリーに変換する……という作業をやり始めるのです。
もとの『ラストサムライマシン』は、映画の『ラストサムライ』に基づくものですから、それをもう一度映画に戻せば、論理的にはもとの映画の『ラストサムライ』になります。しかし、改造されてしまった『ラストサムライマシン』第2実施例とでもいうべきものは、それを映画に戻してみると、当然、オリジナルの『ラストサムライ』とは違ったものとなります。
すると……私の、もうほとんど狂いかけたといってもいい暴走脳は、今度は、オリジナル『ラストサムライ』と、第2実施例版『ラストサムライ』の詳細な比較検討をやり始め……ああ、なるほど、機械の方でここをこう変えると、映画の方ではこういう風に変わるのか……と。それじゃあ、映画の方をこういうふうに変えたければ、機械の方のどこそこのパーツのなになにを、しかじかに交換する必要があるなあ……とか、機械のこういう作用が映画ではこうなるから、映画でこうしたければ、機械のこういう作用を少し変えにゃあいかんなあ……とか。
暴走脳は、そういう変換をいちいちやってみて、効果を検証していくのです。そして、検証によって、また『ラストサムライマシン』をいじる……と、この繰り返しが延々と続き……しかも、それはまだ第2実施例についてやっているだけで、背後には、第3、第4、第5……そして、第n実施例が無限に続く……わが暴走脳は、そういう無限の系列を、ものすごいスピードで渡り歩きながら、延々と終わることのないお仕事に、ますます過激にのめりこんでいきます……

これは、もう、主体の方としてはたまりません。もうやめてくれーと叫んでいるのに、暴走脳はますますテンションが上がり、ハツカネズミの車のようにぐるぐるぐるぐる……シューベルトの歌曲の『糸を紡ぐグレートヒェン』の伴奏みたいで……しかも、あのぐるぐる音型がシンセサイザーで多重複合されて積み重なり、盛り上がって、破局に向かうレミングの愚かな群れさながらに……

ああ、なるほど、この時点で飛び降りるんだ……と、思いました。

幸い……十代ではなかったし、平屋で、前の道もほとんど車の通らない細い生活道路ですから大事には至りませんでしたが……
ナルホド、タミフル……と、妙な納得がいった体験ではありました。

そして、この体験からわかってきたこと……

人間の脳というものは、実は、ふだんからいつも、このようにぐるぐるぐるぐると考え続けているんじゃなかろうか……と。

私たちは、常日頃、なにかを考えるとき……それはたとえば、今日の昼はどこでなにを食おうとか、明日は休みだからどこそこへ行こうとか……そういうごくふつうの何気ない日常的思考から、存在とはなにか……などという哲学的思考に至るまで、わりと筋道を立てて、論理的に考えるように思っています。
そして、そのときの思考のモデルとしては、出発地点から目標地点まで、道を選んで辿るように……そのとき脳の中では、なにか必要なプロセスの思考だけが進行している……というようなイメージを持っているんではないでしょうか。

たとえば、SF映画なんかで、被験者が椅子に寝かされて、頭に複雑な配線がからみあったヘッドギアを装着されており、モニタには被験者の脳の3DCGが見えている……被験者が何かを聞かれ、それについて考えると、脳の対応部分にささっと光が走る……脳の他の部分はお休みしていて暗い……こんなモデルを考えているように思います。

しかし……私は、今回のタミフル体験で、それは違うんじゃないか……と思いました。
脳は……いつでもパワー全開で、すべての部分がぐるぐるぐるぐると回り続けているんじゃないでしょうか。
ただ、それが……あるていど脈絡のある論理的思考ができるというのは……実は、なにものかが介入して、そのとき不必要な思考の回転を阻止し、回路を遮断して……全体として論理的な思考が可能なように制御しているんじゃないかと思うのです。

この状況は……たとえば、原子炉の仕組みにも似ていると思います。
原子炉というものは、たくさんの燃料棒がさしこまれていて、そのままだと勝手に核反応が進行し、連鎖反応となって臨界にまでいってしまう。それでは困るので、中性子をブロックする制御棒というものをさしこんで連鎖反応を妨害し、望みの出力を取り出せるように調整する……。

私たちの脳も同じで、脳細胞自体はいつでもぐるぐるぐるぐると考え続けているので、そのままではあっと言う間に<臨界>に達してしまう。そこで、脳の、そのとき必要な部分だけが働き、不必要な部分はブロックされるように働く制御棒に相当する存在……そういうものがあるんじゃないでしょうか。
そういうものの働きによって、私たちの脳は、状況に必要なことのみを考え……その思考が論理的に連なっていって、必要な結果を出すことができる……そういう構成になっているんじゃないかと思います。

しからば、その制御棒を出したり入れたりする存在とはなにか……
それが、実は私たちの<意識>であり、行動的側面からは<主体>といっても良く、またカント式にいうなら<統覚>と呼ばれるものではないか……と思います。

したがって……以上から、私たちの脳のモデルを考えて見ると、たとえば次のようになっているんではないでしょうか。
まず……いくつかの脳細胞がシナプスで結ばれた、<思考の最小単位>とでもいったものが存在します。まあこれを、便宜上<シンクユニット>とでも呼ぶことにいたしますと……このシンクユニットは、物理的には、つまりハードウェア的にはシナプスで結合された複数の脳細胞よりなるが……それはまた、独自のアルゴリズム、すなわちソフトウェアをもっているのです。
このハードウェアとソフトウェアが揃った最小単位のシンクユニットは、ですから、それ独自で<考える>ことが可能であり、実際に、常にぐるぐるぐるぐると考え続けているものであろう……と思います。ハツカネズミが車輪の中で走り続けているように……どこから命令されるのでもなく、それ独自の存在の仕方が<考える>ということなので、この最小単位シンクユニットは、ただひたすら考え続けているのです。

私たちの脳は、このような<考える機械>であるシンクユニットを最小単位として、複数のシンクユニットが一まとまりのグループをなし……そして、それらのグループにもやはり独自のアルゴリズムがあって、独自の回路で考え続けている……そしてまたそれらがグループを……というように、脳は、このような複合的なシンクユニット階層構造をなしていて……その連結部分のそれぞれに、制御棒にあたる仕組みが挿入されている……
そして、最終的には<統覚>あるいは<主体>がその制御棒をコントロールしていて、目的に合った思考のみができる……と、そういう構造になっているんじゃないか……と思うのです。

タミフルというおクスリは、なぜかはわからないけれど、この<統覚>の制御作用を弱める働きを持っているんじゃないか……と思います。タミフルによって、<統覚>の制御作用が弱められていきますと……それは、原発において制御棒が引き抜かれていく状態と同じになり……今まで、一定の意志のもとにコントロールされていたシンクユニットの活動に制御が効かなくなり……シンクユニットは、勝手に他のシンクユニットと連結して、無目的に稼動を始める……そういう状態が脳全体に起こってきてどんどんヒートアップし、脳の暴走は止まらなくなる……と、こういうことになるんじゃないかと思うのです。

以上、私のタミフル体験でしたが……でも、考えてみると、ことさらタミフルを飲まなくても、ある程度似たような体験を、私は毎日しているようです。

それは、夢の中で……。

夢においても、ある程度<統覚>は弱められて、脳内の制御棒が少し抜かれた状態が現出しているんじゃないか……

制御棒が抜かれるとともに、脳内のシンクユニットたちは、それぞれが勝手な思考活動にふけりはじめ……その総体が、<夢>と呼ばれるものに相当するんではないか……と思います。

ただ、夢の場合には、タミフル体験のように過激なまでに制御棒が抜かれてしまうのではなく……覚めているときの<統覚>とは異なるものの、なんらかのリズムあるいはパターンをもった<擬似統覚>のようなもののコントロールは受けているように感じます。
さきほど……ソファに寝転がって、うつらうつらとしてしまいましたが……そのとき、私は夢の中で、昔通っていた高校にいました。

高校の廊下を歩いている……ああ、あそこの隅には、だだっぴろいがものすごく汚いトイレがあったはずだ……と思って扉を開けてみると、そこはトイレではなく……まあ便器は一つあるが、浴槽や洗面台?のようなものや……他にもわけのわからない設備のある、よくわからない部屋になっている……
「ああ、そうか、今はもうこんなふうに改装されてるんだ……」
と、夢の中の私は、ひとりで納得していたりします。

夢に現われた過去の細部が、記憶と異なれば、それは時がたって改装された……と、夢の中でそう考えて納得するのは、やっぱり状況全体をまとめて見ることのできる<統覚>の働きなのでしょう……ただし、それは、目覚めているときの本格的な統覚からみればずいぶん規制の緩い、<擬似統覚>のようなものなのですが……

ここからすると……目覚めているときの<統覚>の性質が、少しずつ明らかになるようにも思います。
人は、寝ているときには、外界から受ける刺激の量はぐっと減る……と考えられます。
目は閉じているからまわりの光景はむろんわかりません。ただ、明るさの変化や光源の移動などは感じることができるでしょう。視覚については、それくらいのレベルに情報量は落ちている。
これに比べると他の感覚、聴覚、触覚、嗅覚といったものは、基本的にオープンになってはいるが、やはり覚醒時よりはかなりレベルダウンしているでしょう。
味覚については……寝ながらものを食べる人は珍しいでしょうから、これはほぼない状態かもしれません。

こういうふうに、外界からの刺激の情報量が大幅ダウンしている状態が……眠りと呼ばれるものであるとすれば、ここから逆に、覚醒時の統覚が、なんによって成立しているか……ということを類推することができます。
それは……自分でないもの、他者との交感によって成立している……ということがいえるのではないでしょうか。
これは、実に面白いことだと思います。

人は……世界の中に、きちんと自分というものを確立する……そのためには、絶対に<他者>というものが必要になるのです。
他者との交感を欠いてしまうと……それは、眠りの夢の状態となり、目覚めの統覚は失われて、擬似統覚といったものに置き換えられてしまう……それにより、脳内のシンクユニットをコントロールしていた制御棒はランダムに引き抜かれはじめて、脳内シンクユニットたちはある程度独自のアルゴリズムでぐるぐるぐるぐると回転をはじめ……脳内は奇妙な思考が飛び交う<夢空間>と化していく……
そういうことであると思います。

自我……というもの……「私は、私である」という意識……これは、抽象的に考えますと、自らをまわりの世界から切り離し、自分と他者との境界を限りなく明確にしていくところに成り立つものであるかのように思ってしまうのですが……実は全く逆で、他者と交わり、まわりの世界を積極的に受け容れていくことによってはじめて<統覚>がきちんとその働きを果たすようになり、脳内のシンクユニットどもに対する統御していく力も完璧なものへと磨かれていって……そこに「われ」、本当の自分自身と呼べるものが成立してくるのではないか……と、そのように考えられます。

他者、あるいは回りの世界との交わりは……必ずしも自分にとって愉快なものであるとは限らない……あるいはむしろ、戦いの苦悩に満ちた場面も多く経験するかもしれないけれども、そこで引いて自分自身の中に逃げ込んでしまうと……逆に、<自分自身>であるという統覚は、崩れていきます。

自分であろうとするがゆえに、自分を失う……という逆説。
逆にいえば、本当の自分であろうとするためには、自分を、世界に投げ出さねばならない……という真理。
夢の世界は、こんなことも教えてくれます。

*本論はここで終わりですが、以下、ちょっと補遺的に書かせていただきます。

タミフルによって脳の<統覚>が壊されていく……と書きましたが、これには、インフルエンザによる高熱状態も関与しているのかもしれません。この点もよくとりあげられていることですが……今回は、タミフルを飲んでしまいましたので、自分自身としての検証はできませんでした。

「統覚」という言葉についてですが、平凡社の『哲学事典』には、次のように書いてありました。少々長いですが、興味深いので、引用してみます。
『統覚 [英・仏]apperception [独]Apperzeption 明瞭なる知覚表象および経験を総合統一する作用の意味。この言葉を最初に用いたライプニッツによれば、知覚は外部世界を映すモナドの内的状態であり、統覚はモナドの内的状態の意識的な反省である。メーヌ・ド・ビランでは自我が自己の内的活動を直接的に把握することをいう。カントは、現実についてのあらゆる直観にともなう自己の意識である経験的統覚と、意識の超越論的統一である純粋統覚ないし超越論的統覚とを区別した。後者はあらゆる可能的経験に先立ち、それらの経験を構成し、可能にする根本原理である。(後略)』
ここで、カントについていわれている、「現実についてのあらゆる直観にともなう自己の意識である経験的統覚」が、すなわち私が「シンクユニット」という言葉で表現しているものの働きにほぼ相当するのではないかなと思います。すなわち、これはほぼ自動的に生成してしまうもので、いわば悟性的な能力と申しますか、コンピュータの働きにも置き換え可能な部分なのでしょう。
これに対して、「意識の超越論的統一である純粋統覚ないし超越論的統覚」の方は本物の統覚で(おかしな言い方ですけど)、カント的にいえば人間の理性的な能力であり、人の人格に深くかかわる、「その人」を成立させている根源のようなものではないでしょうか。あるいは「霊的な」能力といってもよいかもしれません。

人の脳の構成を原子炉にたとえましたが、これはまた、楽器でいうならシンセサイザーのようなものかもしれません。
シンセサイザーという楽器は、もともと音の全ての要素を造りだしておいて、そこから引き算を重ねることによって望む音を造る装置だと聞いたことがありますが……人間の脳も、それと同じで、もともと<すべてのこと>を考えている脳があって、それにうまく制御棒的なエレメントが挿入されて、ふだんの生活に必要なことしか考えないようにコントロールされているんだと思われます。
あるいは、パイプオルガン。
パイプオルガンの音色を決める構成を<ストップ>(和訳で音栓)といいますが……これは、文字通り、ワンセットの系列のパイプに風がいかないようにストップしている栓です。
つまり、パイプオルガンもシンセと同一発想で(話が逆かもしれませんが)もともとは全部のパイプが鳴る仕組みだけど、それをストップでコントロールして、望みの音色を得ている。
脳の暴走は……パイプオルガンのストップを全部開いて、全鍵盤を同時に押さえた状態に例えられるかもしれません。
最も、それでは風量が不足して、充分に鳴らない……ということかもしれませんが。

悟り……というのは、統覚が脳の支配権を完全に掌握して、制御棒の出し入れを自由自在に行えるようになった状態をいうのかもしれません。
このとき、人は、すべてのシンクユニットの全階層を、完全にクリアな目で見渡すことができるので……それは、もう、いわば「人」としての完成状態と申しますか……自分が本当に自分の主人になって、思うがままに脳をコントロールできる状態なのでしょう。
そして、この状態になって……全部の制御棒を、完全にさしこんだ状態にしたとき……それは、原子炉においては「稼動停止」状態になるのでしょうが、脳においては、何が起こるのか……興味あるところです。
また、「われ」が「他者」との交感によって成立するものであるとすれば、「悟り」の状態とは、「われ」が、完全に世界に向かって開かれた状態であるといえるかもしれません。
すべてに対して「逃げていない」状態……といえるのかもしれません。ちょっと、想像もできないですが……
通常、「悟り」というと、なんだか「隠遁生活」とか、「山の中での瞑想」とか、そういう孤独なもののイメージと結びつきがちですが、事実は逆で、一切を開いて、世界と、宇宙とすら交わっていくという、ものすごく積極的な世界……なのでしょう。

「他者との交感」と書きましたが、この「他者」には、むろん人間だけじゃなくていろいろな生き物、動物や植物から……山や川や石や水や空気といった自然物、そして、道具や家や街並みや……そういった人工物まで、すべてを含みます。ついでにいえば、自分の身体も、そして、自分の脳さえも……それも、あるいは「他者」として現われてくるものなのかもしれません。
すると、残る「自分」とはなにか……
これが、すなわち「統覚」になるのではないでしょうか。