icanology
ガリア戦記_若草

73mm×208mm×38mm、紙、木、スチレンボード、2014

カエサルの『ガリア戦記』をQ-book化。

Q-bookは私の造語で、Cubookとも書けます。日本語にすると「箱本」で、箱の中に造りこんだ本のこと。分類するなら、豆本とかのたぐいになるかもしれません。普通の本はページの重なりでできていますが、この箱本は、ページ自体が3Dになっています。というか、そもそもページという概念があてはまりません。

立体的になっているかわりに収録語数は極端に少ない。この『ガリア戦記』でも、第一巻の冒頭のほんの一部です。タイトルも入れて46語。これを、長さ21cm、幅7cmのお菓子の箱の中に造りこんでいます。

文章は原文のラテン語で、書体は、オールドローマンの母型である「トラヤヌス帝碑文」から採りました。カウンターがゆったりと広く、Qの文字のテールがすうっと伸びている。古代の文字は、気品があります。印刷ということを全然考えてない書体です。石に刻んであった書体だから、当然といえば当然ですが。
日本語にすると、だいたい次のようなことを言ってます。

ガリア戦役についてのカエサルのコメント
第1巻
ガリアは、およそ3つの部分に分けられる。ある部分にはべルガエ人が住み、別の部分にはアクィターニ人が住み、そして3つめの部分には彼らの言葉でケルト人、われわれの言葉でガリア人と呼ばれる人々が住んでいる。
この人たちはみな、異なる言葉で話し、習慣も法律もお互いに異なっている。
ガルンナ川がガリア人をアクィターニ人から隔て、マトローナ川とセーヌ川がべルガエ人から隔てている。

原文は次のとおりです。

CAESARIS COMMENTARII DE BELLO GALLICO I

GALLIA EST OMNIS DIVISA IN PARTES TRES
QVARVM VNAM INCOLVNT BELGAE ALIAM AQVITANI TERTIAM QVI IPSORVM LINGVA CELTAE NOSTRA GALLI APPELLANTVR
HI OMNES LINGVA INSTITVTIS LEGIBVS INTER SE DIFFERVNT
GALLOS AB AQVITANIS GARVMNA FLVMEN A BELGIS MATRONA ET SEQVANA DIVIDIT

英訳と独訳を添えておきます。

Gaius Julius Caesar’s
Commentaries on the Gallic War
Book 1
All Gaul is divided into three parts, one of which the Belgae inhabit, the Aquitani another, those who in their own language are called Celts, in our Gauls, the third.
All these differ from each other in language, customs and laws. The river Garonne separates the Gauls from the Aquitani ; the Marne and the Seine separate them from the Belgae.

Gaius Julius Caesar
Über den Gallischen Krieg
Liber 1
Ganz Gallien ist in drei Teile geteilt, deren einen die Belger bewohnen, den anderen die Aquitaner, den dritten, die in eigener Sprache “Kelten” genannt werden, in unserer Gallier.
Diese alle unterscheiden sich in Sprache, Gewohnheiten und Gesetzen.
Der Fluss Garonne trennt die Gallier von den Aquitanern, die Marne und die Seine trennt die Gallier von den Belger.

今回のQ-bookでは、各単語の長さと高さが同じになるようにつくりました。1cmの長さの単語は高さも1cm。2cmの長さの単語は高さも2cm。つまり、長い単語ほど高くなるように設計しています。いちばん長い単語は、タイトルの中の「COMMENTARII」で、この単語の高さがきっちり箱に収まって蓋ができるようにつくりました。
蓋を閉めるとこんな感じになります。

ガリア戦記_若草

若草……どんなお菓子だったか、あんまり印象がないので、調べてみましたら、松江にある彩雲堂という老舗の銘菓で、求肥(餅+砂糖)を短い角棒状に練って、それに緑色のそぼろ(餅からつくった寒梅粉)をまぶした茶菓子でした。
松江藩の7代目藩主だった松平治郷公の作で、これを、明治30年(1897)に彩雲堂初代山口善右衛門が研究復元し、今なおつくられています。右肩に「不昧公好」とありますが、元々の創作者の松平治郷公は、別名「不昧公」(ふまいこう)と呼ばれていたので、こう書いてあるようです。また、「若草」という命名も、この不昧公の歌、

曇るぞよ 雨ふらぬうち 摘んでおけ
           栂尾の山の 春の若草

からとったといいます。

「栂尾」(とがのお)は今も残る京都の地名で(京都市右京区梅ヶ畑栂尾町)、鎌倉時代に、明恵上人が、京都の栂尾山にお茶の樹を植えたということです。
この明恵上人に若草を詠んだ歌があるのですが、それにちなんで不昧公が先に挙げた歌を詠んだといいます。ちなみに、その明恵上人の歌は、次のとおりです。

曇るなり 雨ふらぬまに つみてをけ
           とがのお山の 春の若草
                    「春雨抄」

では、明恵上人は、お茶の樹をどっから入手したのかというと、元は、臨済宗の開祖、栄西上人に遡るようです。

栄西上人は、仁安3年(1168)、南宋に行き、建久2年(1191)に帰国。京都に建仁寺を建立)します(建仁2年・1202)。彼が明恵上人にお茶を伝えたのは、この頃だったのかもしれません。お茶は、当時は、今みたいに嗜好品ではなくて、むしろ薬みたいに考えられていたようですが。

なお、日本に最初にお茶を伝えたのは天台宗の開祖、最澄で、そのときは比叡山のふもとの坂本に植えたとか。一時は盛んに飲まれたものの、遣唐使が廃れてくるにしたがい、喫茶の習慣もいつしか止み……で、それを再興したのが栄西上人ということのようです。いずれにせよ、お茶は、当時はハイカラ飲料(今でいうワインやコーラ?)で、これが利休とかにつながっていきます。宇治茶のルーツも、この栄西―明恵ラインのようです。

松平不昧公は、おそらくお茶のルーツを、明恵上人の栂尾山と考えていたのでしょう。それにしても……明恵上人と不昧公の歌を比べてみますと、ほぼ一緒です。パロディにもなってません。いいのだろうか……今なら「著作権」云々になりそうなほど同じ。なんで、こんな、先人と変わらない歌を詠んだんでしょうか?

ちなみにこの箱は、若草六個入りで、お値段は864円(本体価格800円)のものです。したがって、この若草というお菓子は、一個が130円相当。歴史があるわりにけっこう安い? 30個入り(4148円)までは紙箱のようですが、32個入り(5184円)になると木箱になるみたいです。

単語の高さがわかるように撮ったディティールをあげておきます。

ガリア戦記_若草_ディティール