第3身体のこと 1〜12

creatorsbankというウェブサイトに、calamar名で投稿した文章です

1.

第3身体は部屋。家。街。環境。そして地球。
地の神々の身体に、つながっていきます。

第3身体は、自然法則と人間がきめた法則に支配される場。
ここで、私は、はじめて本格的な制限を受ける。

英語でlawと書くと、これは、自然法則にもなれば、法律の意味にもなる。
日本語では、このふたつを一語で表す言葉はないみたいです。

100mはいくらがんばっても10秒そこそこだし、フィギュアスケートで5回転は無理。
人類の先端にも、こんな制限がかかってます。

宇宙は、たぶんだめでしょう。宇宙は、人の場じゃない。
第3身体の限界は、地球……ですね。

でも、私自身は、地球を越えて宇宙にいける。
なぜならば……私というものは、第1身体でも、第2身体でもないし、むろん第3身体でもないから。

第1身体も、第2身体も、第3身体の法則が入ってきて、かなり縛られてます。

物理法則。身体の内側に服を着ることはできない。
人間法則。街中を、裸であるいては、いけません。

1、2、3。
全部の身体がきちんと調和すると……
それは、「天国」とよばれるのかもしれません。

2.

人には、どれだけの空間が要るか。

満員電車では、ゼロです。
ゼロでも、限られた時間なら、耐えられるってことです。

昔、こどものころ……大金持ちのトイレの広さについて、考えました。
6畳くらい?いやもっと?
いくらなんでも100畳 200畳はないかな……
ということで、浮かんできたのが……
広大な部屋の中央に、便器がひとつ。(なぜか和式)
高い、たかい天井から、水洗の紐が垂れている……

こんなトイレで用をたすって、どんな気分だろう?

第3身体としての家は、複雑です。

知り合いの建築家で、トイレは、家全体のいちばんいいところに置く
という人がいた。
実際に設計した模型も見せてくれた。
でも、彼は、お客のいない、いわゆるペーパー建築家だった。

もう一人、知り合いの建築家の話。
お客さんに頼まれて、住宅を設計。
その彼が、ぼやいていた。
「施主さえいなければなあ……」
一瞬、マジ?と思ったが、顔を見ると本気でした。

家は、住む人のもの。
良い建築家を 選びましょう。

3.

第2身体と第3身体のいちばん大きな違いは、

第2身体 → 動産
第3身体 → 不動産

ということだと思います。

服や装身具や車なんかは本人と共に移動可能だけれど、家や土地なんかは、携帯できません。
キャンピングカーなんかだと、微妙なところですが……(やっぱり第2身体でしょう)
楽器なんかでも、この観点から考えると、ヴァイオリンやフルートや三味線、尺八のたぐいは完全に第2身体。
これに対し、ピアノなんかになると、けっこう第3身体ぽい(2.5身体?グレン・グールドのピアノなんかは第2身体で、どこの演奏会でも自分のスタインウェイを運んだ)

パイプオルガンなんかになっちゃうと、これはもう完全に第3身体ですね……(不動産に分類されるのかどうかはしりませんが、おそらくそうなんでしょう。動かせないもん)

これに対し、第1身体は……

第1身体 → そもそも財産ではない
第2、3身体 → 財産(動産、不動産)

ということだと思います。

アンクルトムの中に出てくる黒人奴隷が、雨が降るといつも帽子を脱いで上着の中にしまう。

帽子をかぶってればぬれないのに……と思って訊ねると、
「身体は主人のものだが、帽子は自分のものだから」

このくだりが印象に残っています。

現代ではむろん、人の身体はだれの財産でもありませんね。

著作権は、かなりうまくこの状態を反映している。

著作権は
売買できる「著作財産権」と
売買できず、作者と一体の「著作人格権」
この両方で構成されている。

著作財産権は第2身体的であり……
著作人格権は、第1身体的です。

この考え方を敷衍していきますと……
第3身体に対応できる、「著作環境権」みたいなものも、必要なのかなあ……

4.

第3身体の最小範囲は自分の部屋。
これに対し、最大範囲は、惑星地球。

以前、カプセルホテルにとまったことがありますが、これはつらかった。
スペースの狭さもありますが……なにより、カプセルのぐっと内向きに収縮してくるベクトルが、第3身体的にあんまりよくない。
で、サウナに行くと……大勢の人がいるにもかかわらず、ホッとしました。

テントなんかも狭いんだけど、カプセルホテルのような、あの圧迫される感じはありません。
薄い布一枚で、環境に開かれている。
風や温度、光なんかを感じられる。
寒かったりするけれど……だいじなことではないかと思います。

第3身体というのは、やっぱり環境への連続感覚が大切なんではないでしょうか。
この空気は、地球の裏側までつながっている……
この海は、どこまでもいける……
そういう感覚かなと思います。

窓に、精巧な大型モニタを取り付けて外の景色をそのまま映し出す。
見えるものは同じでも……やっぱり、それはちがうのでしょう。

ジェームズ・タレルの、天井が抜けて空が見える部屋。
私は入ったことがない。どんな感じなんだろう……

この作品の特異なところは……水平方向の環境が一切見えず、天空だけが切り取られて見えるというところだと思います。

第3身体の最大範囲である「環境」を完全ブロックして、第3身体を超える、第4身体とでもいうべき天空・宇宙を直接に見せる。
ここで、人は、惑星地球を「離れる」感覚を体験するのだろうか……

人は不思議で、この惑星地球を「離れる」ということを考えることが、できるのです。

5.

第3身体の上限が地球になること。
これは、ふしぎだが、ほんとうのことだと思います。

私たちは、地球の上を、歩く。
まっすぐ歩いているつもりでも、曲がっています。
地球の表面が、丸いから。

まっすぐどこまでもいくと、結局、出発地点にもどってくる。
まあ、海は船で渡るとして。

地球の周りを一周4万kmとすると、1km歩くごとに、地球の中心から測って0.009度ずつ傾く計算になる。
10kmで0.09度、100kmで0.9度、つまり約1度です。

名古屋-東京間を約300kmとしますと、この傾きは2.7度。
これは、けっして小さな数字ではありません。

名古屋の人は東京の人に対して、東京の人は名古屋の人に対して、それぞれ3度近く傾きながら暮らしていることになります。

惑星地球の重力場は、このようにすべてを曲げて、あらゆるものをその表面に貼りつけて、囲いこんでいます。

この力に対抗するには……
地球の中心に対して垂直方向のベクトルを持たねばならない。
そして、この垂直ベクトルだけが、地球上に存在する唯一の<直線>となります。

まっすぐな建物も、まっすぐな道も……
実は、すべて曲がっている。
垂直に上昇するエレベータだけが……実は、本当のまっすぐ。

地球上の生命は、むろん人間も含めて、すべてこの<測地力>(ジオデジック・フォース)の影響を受けている。
人の第3身体も、やっぱりこの力の影響を受けて曲がり……それは、地球表面をぐるりと取りまいて、完結します。

ジェームズ・タレルの作品で……
水平方向の窓が一切なく、垂直方向、天井にだけ開口部があるのは……
人の第3身体を、通常の水平に曲がっていく力から遮断して、本当の直線、つまり天空に延びていく垂直力にゆだねようとする試み……

ここで、人は、どのような<感覚の変化>に
とらえられるのでしょうか。

6.

人の第3身体は、パブリックにかかわる。
ここが、いちばんやっかいなところだと思います。

第3身体の、いちばんの特性は、<共有>ということでしょう。
他の人と、また他の生命と、そして地球上の山や川やすべてのものと
共有する。これが、第3身体の顕著な特徴。

実は、完全に個人のものと思われている第1身体からして、<共有>です。

自分の身体の中にいる細菌たちとの共有……そればかりでなく、自分の身体の細胞一つ一つが生命体であると考えると、彼らとの共有……

第1身体に入ってくるさまざまなものは、かつては別の生命体であったし……第1身体から出て行くものも、やがて他の生命体となる……

こうやってみると、いちばん<個的所有>のしばりがきついのは、実は第2身体……ということになるのかもしれません。

昔、スウェーデンだかどっかで、共産主義のコミューンがあって、共産主義思想を徹底しようとした。
そこではなんと、歯ブラシまで共有していたそうな。

いくら<私有財産の否定>といっても、歯ブラシの共有まではなあ……というのがふつうの感想だと思います。
でも、車くらいになれば……会社の車なんか共有が前提だし、最近では、1台の車を複数の人でシェアする試みもあるそうですね。

電車やバスまでくると……「公共交通」という名が示すとおり、共有が前提の世界です。

第1身体の極限には、「財産」に関係のない本質的な「共有」があり、第2身体は、「財産」に深くかかわって、第3身体に近づくほど「共有」の度合いが高くなる。

個人商店なんかだと、まったくその人の会社ですが……有限会社、株式会社とすすむにしたがって「共有」度合いは高まります。
株式会社でもあまりにでかくなると、もうこれはほとんど「公共」で、つぶれかけてもつぶせない。国が、財政援助までやります。

ところが……第3身体の規模がさらに大きくなって、「地球全体」にまで及ぶと……今度はまた、「財産」観念との結合が薄まってきます。

地球全体……ということは、当然人間だけじゃなくて他の生命や地球自体のことも考えなくちゃならないので、「人間」にだけ通用する「財産」ルールが通らなくなります。

ここで……「環境」となってしまった第3身体は、奇妙なことに、くるりと反転して、第1身体に直結してしまう。
「環境」を考えるとき……やっぱり、みな、「自分の身体」を、どうしてもその中心にもってきます。
これは、無意識的に……でも。

環境問題は、なぜか、「自分が生き残る」とか「自分が気持ちよく暮らしたい」ということに、直結してしまう。
とくに、日本では、その傾向が強いみたいです。

ヨーロッパ的な考え方だと、環境問題はあくまでパブリックとしての第3身体の極限形態と考えるから、アプローチは非常に合理的でシステマチックな印象がある。
ところが……日本においては、もともとパブリックとしての第3身体的な考え方が希薄だから、「環境」が「自分の身体」に直結してしまうのかもしれません。

いずれにせよ、第3身体が極限までいって地球規模になりますと、ここで、「人間のルール」は通用しなくなるので……
人間が、合理的に考えられる道も、ここで終わると思います。

この洗剤は、使用後に分解されるから地球にやさしいよ。

そんなことをいう人もいたりしますが……
じゃあ、その洗剤が、ホントに地球にやさしいか?
これを、どこまでも追っかけて徹底検証するのは不可能です。

そもそも「地球にやさしい」って、どういうこと?
どの範囲までを「やさしい」とするの?

人が、第3身体のことをわかるのは、せいぜい自分が住み、暮らす範囲だと思います。
それ以上は、想像や論理がはいってきて、わかってない部分を勝手につないでしまう。
そういう勝手な論理ばかりが乱立して、いつのまにか「実感」のない世界に迷いこみ、すべてがわからなくなってしまう。

第3身体のことは、第1身体の声に聞く。
それが、今できる、いちばん確実な方法なんじゃないかな?
と、思いますが。

7.

私の第3身体は、私の第1身体が、のし歩いていく場として、形成される。

赤ん坊のころは、ベビー布団とかベビーベッドの範囲だけ。
それが次第に大きくなって、部屋全体になり、家全体になり、ついに外にでる。

もっとも、親に運ばれて着地した地点で、飛び地をつくりますが。

交通機関を使えるようになりますと、さらに範囲は広がります。
でも、交通機関に運ばれている区間は、はっきりいって「未踏」の地です。

飛行機なんかで海外にいく。
これはもう、はっきりと「点」攻略になる。
着いた先で、足で歩いたところだけが、自分の第3身体になります。

知り合いで、日本の海岸線の一周をやっている人がいます。
むろん、徒歩で。

のべつ歩いているわけにいかないので、前に終わったところからまたはじめる……ってやりかたですが。
彼は、こうして、日本の4つの島の海岸線を歩きとおしました。

さて、それがどうなの? ということなんですが……
歩いた領域が、彼の第3身体となった。
これは、実際に歩いたその人しかわからないことですね。

私の街。
かつて暮らしていた街は、県庁所在地で、そこそこの規模でした。
でも、私は、その街のほんの一部しか知らない。
一部しか、私の第3身体に、なっていません。

よく行ったところでも……
実際に歩いた道、入ったお店しかわからない。
あとは……ブラックボックス。

よく行ったお店でも……
やっぱり、まったく立ち入っていない空間もある。

うーん。
そうやって考えると……
私の第3身体って、やっぱり点座標なんでしょうかね。

8.

リチャード・ロング。

山行水行……

だいぶ前に、世田谷区立美術館で見ました。

イギリスの現代美術家ですが、
まるで、日本の禅僧のようなイメージの方。

この人は、「地元の泥」で作品をつくる。

美術館の壁には、世田谷の泥が……
はかなくも美しい模様を、見る人に語りかけるように
描かれておりました。

マップの上に、自らが踏んだ地をしるした作品もあった。

うーん、これは、正直。

現代美術なんて、ひねた、こむずかしい……
と思うと、良い意味でうらぎられます。

ストレート。しかも気負わない。

淡々と……ただもくもくと
やるべきことだけを、きちんと納めていく……

これは、なんか、やっぱり「悟り」ですね。
月並みな言葉だけど。

私の第3身体は、なんだろう……

私の第3身体は、どうやって、そこに現われるのか……

そんなことを、考えさせられました。

9.

世界は、そこにあるものではなく……
私が、世界に受け入れられることによって
そこに、つくられるものだと思います。

私の第3身体である「世界」は……
私の第1身体が、そこに受け入れられることによって
はじめてそこに、現われてくる。

私を受け入れない世界は、私にとっては無。
私を受け入れる世界が、私にとって、ある。

世界のどこも、知識として知っているだけでは「有る」にはならない。
そういう世界を「そこにある」と思ってしまうのは……
人間の脳に与えられた、おおいなる錯覚……なのでしょう。

渡り鳥や回遊魚にとって、世界はどう見えて、どうあるのだろうか。
自分の第1身体があるところ……彼らにとっては、やはりそこが世界。
なので……第1身体が動いていくにつれて、世界がそこに、つぎつぎとひらけてくる。

人間は……渡りのルートや回遊の道筋を考える。
でも、かれらにとっては、おそらくそういうものはない。

つぎつぎと開かれて、自分を受け入れてくれる世界……
やっぱり、彼らにとっては、それこそが「世界」なのでしょう。

目的地とかルートって考え方がない。
そういうものは、人の第1身体にとりつく第2身体……なのかもしれません。

おそらく……
地球上のいきものにおいて、人間だけにある第2身体(財産)。
これを介するから、人は、本当の第3身体のことがわからなくなる。

第2身体というものは、おそらくは人の脳のつくりだした複雑怪奇な妄想。
それが消えたら……消えることがあったら……
そのときはじめて「世界」は
私の前に、その本当の姿を現す……のでしょう。

10.

知らない場所へ行くとき、いつもちょっと緊張します。
そこは、私にとって、まだ「世界」じゃないから。

知らない場所に立ってみて、そこが
フレンドリか、そうでないか。
これは、かなりの差です。

異国になじめる人、なじめない人。
漱石は、ロンドン留学で胃炎になった。

北朝鮮の被害者のように、拉致されてしまう……
これは、究極のアンフレンドリですね。

コアラなんかだと、「世界」はかなり狭いようです。
もといた場所と同じ環境、同じ食物にしてやらないと、すぐに死んじゃう。

逆がセイタカアワダチソウで、日本に根付いてススキを駆逐しました。

こういう力の差って、どうなんだろう……

第3身体は、必ず「共有」になるから
「世界」というのは、実は「共有」ということかもしれない。

じゃあ第1身体は……というと、これは「個」という幻想でしょう。

「個」が100%になったり0%になったりする。

個が濃くなってくると……それは第1身体として意識され
薄くなってくると……第3身体としてとらえられるようになる。
そういうことなのかもしれません。

11.

グレン・グールドというピアニストがいます。

彼は、1946年、コンサート・ドロップアウトを宣言。以後、ステージには立たず、スタジオ録音のみで演奏を発表しつづけた。

「世界」は、彼にとって、アンフレンドリなものだったのだろうか。

少なくとも、レコードやCDやフィルムでつながっていく「世界」は、彼を受け入れ、また彼が受け入れられる世界でありつづけたようです。

人は、なにをもって、「世界」をフレンドリと感じたり、そうではないと思ったりするんだろう……

個展を開いても、1週間でお客さんが100人にも届かない。
なんか、むなしい気もします。

でも……
たまたま来たという若い女性。
何十分も見てくれて、感想を述べてくれた。
そこに……「あっ、伝わった」と感じた。
これで、十分という気もします。

私を、受け入れてくれる世界。
それは……また、見知らぬ人の一言だったりする。
そこに、「世界」が、生まれます。

ずっと以前に亡くなった哲学者の本の一節。
そこを読んで、はっと目が開かれたりする。
ああ……そうだったのか!と、急に世界が開かれます。

彼は、自分の死後、東洋の島国の一人の人の中に
そんな世界が生まれる……ってことは、予想だにしなかったでしょう。
でも……生まれた。
これって……すごいことだなあ、と
思います。

第1身体は、すでに滅びても……
それでも、彼にとっては開かれつづける第3身体としての「世界」がある。

結局、何万部売れたとか、展覧会に何万人きたとか……
本質的に、関係ないことなのかもしれません。

一瞬にして伝わるもの。
紙や、画面や、CDや……
そういった媒介手段が、一瞬にして消えてなくなる。

そこでは、たしかに世界は「一つ」です。

12.

私は、自分の身体のこともわからないし、世界のこともわからない。

第1身体と第3身体は、私にとって、ブラックボックスになっている。

第1身体と第3身体が接するところに現われる、第2身体。
これが、いちばんよくわかります。

第1身体と第3身体は、自然。

これに対して、第2身体は、いろんな意味において、「人の技」。

アルスともいい、テクネーともいう。

アートであり、またテクノロジーでもある。

テクノロジーは、第1身体にくいこんでいって、これを明らかにしようとする。
第1身体を覗くための装置の代表は、顕微鏡(ミクロスコープ)。

また、テクノロジーは、第3身体の領域深くさぐって、神秘を見ようとする。
第3身体を覗くための装置の代表は、望遠鏡(テレスコープ)。

人の、第2身体は、どこまで拡張できるのか……

そして……ついに、至りえなかった領域。

第1身体と第3身体の奥の院は、合体して

ヌメノン、物自体

となる。