インスタレーション 1〜6

creatorsbankというウェブサイトに、calamar名で投稿した文章です

1.

インスタレーションって、なんだろう?

彫刻と、どうちがうの??

この言葉がよく使われるようになったとき、そんな疑問を持った。

でも、だんだんわかってきました。


以前、ある彫刻家の個展に行った。

会場に入ったとき、なんか違和感があった。

この人、自分の作品のことしか考えてない。

作品が空間に配置されてどうの……
なんて全く眼中になく
ただ、作品そのものにしか関心がない。

このとき……
彫刻とインスタレーションは、まったく違うものである!
ということが、わかった。


彫刻は、元から立体。3次元。

インスタレーションは、平面。2次元の発展形。

私にとっては、ちょっとした「発見」でした。


インスタレーションは、物語に、似ている。

なんか順序があって、「読み出し」可能。

でも、彫刻は、ごろっとしたカタマリ。
そこに、そのままにあって、それ以上どうしようもない。

平面作品の中には、時空が封印されている。
凍結凝固されてしまっている……といってもいいかもしれない。

平面作品に格納された物語は、ふつう、見る人が読み解いていくのだけれど……
それを作者がやろうとする……そこで、インスタレーションになる。

そんな気がします。

作者によってひきずりだされた「物語」は、平面からはみ出し、空間に居場所を求める。 空間は、物語に彩られて、特有のにおいを持ちはじめる。

お、インスタレーション……

そう思う、抱合体のできあがり、です。

2.

「ブツ」と「空間」は、違う。

「空間」は、カントがいうみたいに、人間の「直感の形式」としてもいいかもしれませんが、「ブツ」の方は、れっきとした「存在」です。

空間は、そこに「在る」ものではない。

これを、感じたことがありました。

昔、私の住んでいた近くに、とてもいい雰囲気の喫茶店があった。

重厚な木調。バロック音楽。異国の文字で書かれた画集……。
壁に、さりげなく牧野邦夫の作品の写真がピンで留めてあったり。

むろん、コーヒーはうまい。

緑あふれる中庭。レンガの壁の小さな家……

マスターが変わった人で、入口に

「やくざとこどもお断り」

と、書いてある。

静か。落ち着いた、芳醇なときが流れる……

ところが、ある日行ってみると「閉鎖」
推測ですが、地上げにあったんじゃないか……(ちょうどそういう時代でした)

ほどなく取り壊されて、空地になってしまった。
その空地を見てビックリ!
こんな狭い場所に、あれだけの空間が入っていたのか!

とても、信じられませんでした。

お店全体が、巨大なインスタレーション……

そんな感じが、今でもしています。

3.

私は平面が多いのですが、画廊に作品をかけるとき、どうしても空間がすごく気になります。

できるなら「空間のいい」ギャラリーでやりたいと思う。

その「空間がいい」というのがどういうことなのか、うまくいえないのですが。

作品配置をいろいろ考えているうちに……
空間をつくるために、この作品をこう使おう、あれはああ使おう
と考えている自分を発見して、「はっ」とします。

作品が、空間づくりの道具になってしまっている……

これは、「インスタレーション」という病気の、最初の兆候です。

で、これがだんだん重症になってくると……
今度は、空間づくりのために、作品を作るようになる。

作品じゃなくてもいいです。モノをならべても……

ということで、本格的なインスタレーションの世界に入っていく。

だいたい、「病状」は、こんなふうに進行するんじゃないかと思います。

私の場合は、作品配置の場面でインスタレーションがかかってきたところで
「はっ」と気づいて、
あっ、そうだったっ、メインは作品なのだ!
ということで、まあ、結局平面をやる人のままです。

空間の誘惑……

この、甘い誘いが通じるのは、なぜか平面をやる人。

彫刻の人にはあんまりききめがないように思える。

なぜだろう……

4.

「惑星地球に、自分自身をインストール」

イギリスの現代美術家、リチャード・ロングさんの作品を、以前に見たときの感想です。

托鉢や巡礼の旅って、結局そういうことだったのかなあ……と、思います。

人って、生まれただけでは、本当に生まれてはいない。
この地球に。

地球に生まれるってことは、地球にインストールしていくということ?
自分自身を。

「サン・ジャックへの道」とかいう映画があった。
フランスからピレネーをこえて、スペインのサンチャゴ・デ・コンポステラ大聖堂への巡礼の旅……

歩いたところに、自分が生まれる。
そういうことかもしれない。

四国N箇所、西国N箇所……
札所で押してもらうスタンプは、出生証明みたいなもの?

では、画廊で作家が行うインスタレーションは、なんだろう?

ものの世界に、自身を生んでいく行為……なのでしょうか。

5.

本の中に、自分をインストールしていく。

そのことによって、はじめてその本は、私にとっての「存在」となる。

おなじように枚葉がとじられたかたちをしていても……
「読んだ本」と「読んでない本」は、まったくちがう。

斜め読み、飛ばし読み、熟読……
おんなじ本でも、読んだ人の意識によって
本の中にできるインスタレーションは、ぜんぜん違うものとなる。

本に、書きこむ人がいます(私はやりませんが)。
自分のインスタレーションを、形に残す……
他人にも、その形は、ある程度見えてきます。

立派な書きこみをやると、その書きこんだ状態が印刷されて、新たな本になる。
「古典」といわれるものの中には、そういうものが少なくないようです。

音楽の編曲。
これも、一つのインスタレーションですね。
ピアノ曲をオーケストラ用に直したり、その逆をやったり……

映画なんかだと、編集の段階で、カットをさまざまにつないだり、並べ替えたり……
インスタレーションそのものです。

要するに、編集、エディットなのかな……?

そうすると……
作家が、画廊でやるインスタレーションも、一種の「空間編集」行為……?

平面作家は、昔から、一つの平面の上で、それをやってました。
いろんな要素を編集して、一枚の画面にしていく……
デッサンを重ね合わせ、習作を造り、組み合わせて……

インスタレーションが「平面」から出発するというのも
なんとなくわかる気がします。

6.

神は……
森で、まっしろな一角獣となる。

そして、森に眠る処女の子宮に入り……
この世界に、自らをインストールした。

それが、世界原理
ロゴスであるキリスト……

ということらしいです。

インストールというのは、これまで異界にいたものが
もう一つの世界に自らを「入れる」行為。

そして、そのためには、「導き手」が
要るようです。

プログラムのインストールは
そのプログラムを望むものの手によって、行われる。

もっとも最近は
勝手に自分をインストールするプログラムもあるみたいですが。
(見つかると、たいてい削除されちゃう)

インストールされるものってのは
単一体じゃなくって、システム……
いろんな要素が連動してアルゴリズムをつくって
全体を変えていくようなものが多い。

世界原理、ロゴスとしてのキリストは
まさに、やっぱり、一個のプログラム……
世界を、書換えてしまうようなプログラムでした。

これに較べると……
彫刻というのは、やっぱり単一体であるような気がする。
ロダンの地獄の門なんかになるとよくわからないけれど、ふつうの彫刻は、やっぱり単一体で、ごろん……と、そこにある。

プログラムのように、原理的な部分にまで入りこんで、世界を変えてしまう……というようなことは、やらなさそうっぽいです。

とすると……
インスタレーションというものは、やっぱりけっこうプログラム的雰囲気に満ちているような気がします。

彫刻みたいに単純明快、ブツそのもの、でない分、なんとなくやっかいっぽい。
どことなく、あんまりかかわりあいにならないほうがいい……みたいな雰囲気が漂う。

彫刻は、だんぜん強い。それは、単一体としての強さ。
もう歴然として、ごろんとそこにある。

でも、インスタレーションは……
ちょっと変ないいかたですが、見えているのに見えない。

見る人が、自分はなにを見ているんだろう……と、思ってしまうようなものがある。

見えているものがそのまま、「作品」にならないというのは……
損をしてるんだか得をしているんだか、よくわからんですね。