「自然を円筒、球、円錐として捉えなさい」 これは、セザンヌの有名な言葉です。 私は、この言葉の意味が、わからなかった。 ところが最近、うーん、なるほど……と理解されてきた。 自然には、中実系(lump)と枚葉系(sheet)があります。 中実とは、中見がつまっている、ごろんとしたもののこと。 これに対して、枚葉はシート。うすくてぺらぺらのもの。 私たちの身体は、外側の形は完全に中実系であって、枚葉系にはあまり縁がない。 枚葉系を持つ生物は、たとえば木の葉。こうもりの羽、蝶の羽など。 なぜか人間の身体は、少なくとも外側には枚葉系を持ってません。 中実系のなりたちは、内側から放射されるエネルギーによって外側の形態ができていく。 エネルギー放射の中心点が動かなければ、周囲の空間に均等に放射されたエネルギーは「球」となる。 エネルギー放射の中心点が動けば、それは「円筒」。 エネルギー放射の中心点が動いて、しかも放射が弱まったり強まったりすると、それは「円錐」となる。 セザンヌの言葉は、中実系の形態の生成を、まことによく見抜いているなあ……と思いました。
自然には、中実系(ごろん)と枚葉系(ぺらぺら)以外に 線系(リニア)と結晶系(クリスタル)があると思う。 ほんとは点系(プンクト)もありですが……なんか印象は、薄い。 線系は、それだけで独立した様相になる場合は少なくて、集合してマッスになる。 人間の体毛なんか、そうですね。とくに髪や鬚は。 枚葉系でも、木の葉なんか、樹木全体としてはマッスになります。 ところが、結晶系は、単体でもマッスでも、特性にあまり違いはでてきません。 「自然を、球と円錐と円筒と……」という言葉の関連でいうと これに当てはまってくるのは ・中実系 ・マッスとなった線形と枚葉系 だと思います。 これに対し、結晶系は当てはまってきません。 こうしてみると、セザンヌのあの言葉は、なんか生命体、生物の身体に対していわれているものであるような…… 私たちの身体。 外形は、まさに「球と円錐と円筒と……」のとおりです。 口から肛門にいたる消化管。 これは、「球と円錐と円筒と……」が通過した軌跡としての空洞(パイプ) 人間の身体は、外形が中実系そのものであり 内形が、中実系の陰画になってます。 かたちを、エネルギーのつくる均衡ラインとしてみるとき…… いろんな新しい見方が、現われてくるように感じます。
中実系(ごろん)と結晶系(クリスタル)。 どちらも3次元展開になるけれど、エネルギーのかたちは全然ちがう。 中実系は、まさに「球、円錐、円筒」で、比較的単純です。 そして、成り立ちは、C、炭素12を中心としてできるシステム。 ところが、結晶系は、それぞれに特有の軸線を持ち、エネルギーの流れもそれにしたがう。 しかも、微細な構造が、基本的にまったく同じように巨大な構造にまで反映されていいきます。(バッハのフーガのように……) 成り立ちも、かなり重い元素が基本になってます。 でも、Cでも結晶になる。 ダイアモンドとか、今はやりのナノカーボンとか…… こうなると完全に結晶系ですね。 絵に描くとき…… 中実系は、セザンヌのいうとおり、「球、円錐、円筒」でいけると思うのです。 でも、結晶系は……? これは、けっこうむずかしい。 M.C.エッシャーの作品なんか、結晶系のエネルギー構成をなんとか画面に現わそうとしているように思えます。 エネルギーのかたちというものは、表面的なものではないから、表面だけを写しとってもだめ。 それで、エッシャーの作品のようになるんだと思います。 結晶系の作家としては、アートではなく建築ですが、バックミンスター・フラーなんかもそう。 彼は、結晶系のエネルギー原理を、建築構造、空間構成のかたちで研究した。 その結果が、あの不思議な作品群だと思います。 中実系の研究は、セザンヌからキュビズム、現代絵画に受け継がれていった。 ここには、多くの研究成果が残されていると思います。 これに対し、結晶系の研究成果はあまりにも少ない…… これは、私たちの身体のなりたち自体が中実系だから……というところに、その原因があると思います。(人は、人を描きたい) 結晶系の絵画的研究は、どうしてもエッシャーみたいな風変わりというか、異端扱いになってしまうんでしょうかね。 「結晶系の人」という変わったお方がおられれば、また話はちがうのでしょうが……
枚葉系(ぺらぺら)は、つねにテンションの問題をはらんでいるように見える。 中実系(ごろん)は、自身のうちから出るエネルギーでかたちができてくる。 結晶系(クリスタル)は、自身の持つ構成原理がそのままかたちになって現われる。 ところが、枚葉系の場合には、自分自身にはエネルギーがない。 他から働くエネルギーによって、そのかたちができてくる。 鳥の羽の断面形状は、飛行機の翼と同じで、上に凸のゆるいカーブですが、これは流体力学で、延長が長いほど気圧が下がる(ベルヌーイの定理)というところから必然的にそうなったかたちです。 あるいは、こうもりの羽なんかは、骨にはられたテンション構造になっている。 魚のヒレなんかは、まさに水流に対してできてくるかたち…… 枚葉系のかたちというものは、やっぱり、自分自身に原理があるんじゃなくて、「他にたいしてどう働くか」というところから決まってくるみたいです。 人間の身体の外観に枚葉系がないのは、人間は、「他にたいしてどう働くか」という選択肢を避けてきたからかもしれない。 人間ばかりじゃなくて、多くの地をかける生き物はそうですね。 水流……気流…… そういうものに積極的に関係しようとしなければ、枚葉系を身体の外に持つことは必要ないかもしれないです。 自然は、球と円錐と円筒と…… 流体力学やテンション構造にあまり関心のなかった生物のお言葉…… ということに、なるのでしょうか。
結晶系のことは、よくわかりません。 おそらく、人間には、いちばん理解しにくい形態なのかもしれないなと思います。 結晶系は、地球上では、生命体としてはなかなか現われにくいみたいです。 ウィルスなんか、結晶の形態を持つこともあるといいますが、とても実感ではとらえられないし…… でも、結晶系は、生物の体内においては、なかなか重要な役割を果たしているんですよね。 結晶系の特異なところは、微細構造がそのまま巨大構造にまで反映されちゃうっていうところでしょうか。 しかも、結晶系の根本は、「原子レベルでの空間の統御」です。 原子レベルでの空間の統御が、そのまま拡大されて、私たちの目に見えるサイズになっている…… これって、よく考えると、とても驚くべきことのように思います。 エッシャーの作品なんかを見ていると、彼の絵(版画)も、やっぱりそういう原理にのっとってつくられていることがわかります。 画面の中に、なにか「空間を決める」小さな要素があって……それが全体を統御して、「絵の空間」が形成されていきます。 こういう絵の描き方をしている人って、ほかにいるんだろうか…… キュビズムは、名前の由来からするとキューブ、つまり立方体ということですが……でも、キュビズムの中にある原理は、セザンヌの中実系の認識、つまり「自然を球、円錐、円筒で……」ということになります。 おそらくは、ほとんどの絵画が、この中実系の構成原理で描かれているし、また、美術系の学校で教えられる描画技法も、すべてはこの中実系の構成原理にのっとたものでしょう。 画面の中の小さな要素が決める空間構成が全体を支配する……ということからするならば、美術教育のシステムをはずれたところでできあがってくる作品の方に、むしろそういうものが多いのかもしれません。 イディオ・サバンとかアウトサイダーアートとか呼ばれる作品群の中に、そういう構成原理を基盤にして作品をつくっているなあ……と思わせるものが多く含まれているのは事実だと思う。 ただ、彼らの作品の場合、エッシャーみたいに空間構成が結晶系で徹底しているわけではなく……なんとなく働く原理が、結局全体を決めていく……みたいなところはありますね。 結晶系は、音楽でいうとフーガというか、対位法で、小さな要素がくりかえされて全体ができていく…… こういう表現形態は、20世紀初頭にもう一度追求されるときがあって、そこでは音楽では12音技法なんかが出てきた。ミニマルミュージックなんかもそういう現われかもしれません。 この傾向は、絵画でいうと、抽象表現主義やミニマルアートに反映されているのかもしれませんが…… でも、結局、私たち自身の肉体が中実系なので、結晶系の構成原理を徹底的に反映させるという具合にはいってないみたいですね。 画面構成が、今までの中実系ではないのはわかるが……では、なんだろう?というと、やっぱりきわめてあいまいなままです。 結晶系は、私たちの肉体の構成原理ではないので……その方面で徹底してしまうと、なんか非人間的といいますか……ちょっと理解が難しい、楽しみにくいものになっていくのかもしれません。 結晶系の知性?であるコンピュータ。 私が、自分のPCの画面にエッシャーの作品を呼びだすとき…… それを情報として扱っている私のPCは、 「あっ、気持ちいいわあ……」 なんて、思うんだろうか……
描いていて、いちばん「中実系」を感じるのは、人体デッサンじゃないかと思います。 人体は、ホントにセザンヌのいうとおり、「球と、円錐と、円筒……」 頭髪なんかもマッスとしてとらえるから、ぜんぶ中実系になってしまいます。 人体デッサンや彫刻デッサンを主とする美術教育を受けた人の目は、やっぱり中実系に敏感になっていると思う。 セザンヌにいわれなくても、自然を、「球と、円錐と、円筒……」で見ることができる。 これに対して、そういう教育をとくに受けていない「ふつうの」人の目は、やっぱり「自然を、球と、円錐と、円筒……」というものの見方はしないのではないだろうか。 ふつうにものを見る場合、やっぱりどんな人でも、「自分の価値観」によって相当にゆがみの入った状態で、世界を見ていると思います。 それは……いってみれば「価値観」というフィルタによってとらえられる世界像…… 以前、なにかの実験で、成人男性と成人女性にいろんな映像を見せて瞳孔の開き具合を測定する……というのがあった。 結果は……男性が最も興味をもって眺めた対象は女性の裸体、女性の場合は赤ちゃんの映像であったとか。 男と女では……おんなじ世界を見ていても、全く違う……ということになりますね。 人体や彫刻のデッサンを主体とする美術教育は、こういう「人によってちがう価値観」をできるだけとりはらって世界を見る訓練……ともいえるけれど、それが本当に客観的なものなのか……それについては、やはりにわかには結論がでない。 たとえば、伝統的な日本の絵画技法においては、やはりセザンヌ流の「自然を、球と、円錐と、円筒……」というものの見方とはまったくちがう観点からの、しかしながらやはりある種の客観的な「ものの見方」が教えられていたと思います。 印象派における浮世絵の影響を云々するまでもなく……現代でも、「スーパーフラット」とかいって、西欧の伝統的な「世界の客観視」とは異なる見方を導入しようとする試みもある(多分にプロパガンダ的ではあるものの)。 こういうものは、やっぱり「中実系」を主体とする美術教育へのアンチテーゼとして、とりあげられるのかな……と思います。 アニメの世界だと、以前は、「中実系」を主体とする美術教育を受けたアニメータはあんまり多くはなかったのではないか……。 セルアニメの世界を見ていますと、そんなふうにも思う。 おもいっきりスーパーフラットですもんね。 ところが…… 最近の3Dアニメを見ていると、事情もかわってきたなあ……と思います。 ポリゴンにテクスチャをはりつけて……というのは、まさに「中実系」のつくりかたではないか。 今、アニメの世界は伝統的スーパーフラットセルアニメとポリゴン3Dアニメが奇妙なふうにないまぜになってできているように感じる。 ポリゴン3Dアニメは、服みたいな「枚葉系」まで中身のある中実系でつくってしまっているみたい。(だから、どんな服でもゴムのよう) 髪の毛みたいな線形は、カタマリのアツマリとして、完全に中実系で再現しています。 おそらくは、これは過渡期であって、将来、もう少し安定した様相が出てくるのでしょうが…… それがどういうものになるのか、楽しみではあります。 セザンヌ氏を生き返らせて、見せてあげたいなあ…… 「自然をポリゴンとして……」 なんて、言ったりして。