力について 1〜6

1.

『スターウォーズ/フォースの覚醒』という映画を、最近見ました。

スターorz/4thの複製……という感じでしたが……

一番最初の作品に当たる、エピソード4を見たのは、今からもう40年も前……
当時は、「フォース」を「理力」と訳していたと思う。

理力?
翻訳の方の苦労が偲ばれます。

で、この「理力」ってなんだ?ということで
SF好きの方々の間で、話題になっていた。
超能力の一種?
いや、宇宙に満ちる、一種の自然法則みたいなもの?
人間にはまだ、発見されていないけど……

で、映画を見てみると、原語は「フォース」でした。
ん……訳すと、単に「力」……

「力を使え、ルーク!」
では、なんともサマにならないから……
「理力を使え、ルーク!」
になったんでしょう。

この「理力」が最初に登場する場面。
ルークが、隠者のように暮らすオビ・ワンに出会う。
オビ・ワンがフォースのことを語りはじめると……
音楽が変わる。
この音楽は、今もフォース(という概念の)登場の場面で使われてます。

2.

この「フォース」という言葉……
実は、1950年頃の、アメリカのコンタクティの著書に出てきました。

コンタクティというのは、宇宙人とコンタクトする人という意味なんですが……
宇宙船は、フォース・フィールド(力場)に包まれている……と書いてある。

絵も載っていて、タテ方向に通る軸の上下から、「フォース」が出ている。
この「力場」が、赤道方向に広がって、宇宙船全体を包みこんでいます。
なるほど……この感じ、スター・ウォーズに登場する「フォース」そのものだ……
「フォース」の訳は、「力場」がよかったのかもしれません。

この「フォース・フィールド」は、宇宙船だけでなく、人間の身体にも、惑星そのものにもある。
人間の身体だと、頭から胴体を垂直に貫く軸からフォース・フィールドが発生する。
惑星の場合だと、北極と南極を貫く軸のN極とS極から発生する。
フォースの発生には、「軸」が不可欠のようです。

宇宙船は、「フォース」に守られて、宇宙空間を「滑空」する。
力の場に沿って飛行するので、きわめてなめらか。
人間のロケットみたいに、
ムリヤリ力の場を切り裂いたりしないのです。

人の生活も、惑星の運行も、宇宙船の飛行も……
すべて、この「フォース」によって展開される。
人は、フォースに則って身体を動かし、
他とコミュニケーションを図る。
そこには、いっさいのムリ、ムダがありません。

だから、この「フォース」は、
美的な動きのガイドラインみたいなもの。
これに則って、宇宙全体が運ばれるかぎり、
どこにも矛盾は生じない……
なんか、そんな世界が浮かんできます。

3.

エピソード4の宇宙船、
ミレニアム・ファルコンの中で……
ルークは、ジェダイ・マスターのオビ・ワンから
フォースを使うための導きを受ける。
そのとき、オビ・ワンの表情が曇る。
「フォースの乱れを感じた……」
ちょうどそのとき、彼らが向かう惑星が、
デス・スターの一撃で破壊された。

フォースは、宇宙の運行さえ司る力なので……
一つの惑星の破壊は、フォース全体に大きな乱れを生じる。
ジェダイ・マスターの卓越した力は……
ハイパー・ドライブのさなかでも、このフォースの乱れを検知した……
そういうことなのでしょう。

仏教には、「インドラの網」という考え方があるそうです。
宇宙全体に、くまなく張りめぐらされたインドラの網……
ここに発生する小さな揺れは、網を通じて宇宙全体に広がる。
要するに、宇宙全体が、一つにつながっているということ。
「フォース」には、そういう側面もある。

ライプニッツのモナドロジーによると、一つのモナドが、宇宙全体のモナドを反映しているという。
これもまた、インドラの網と同じような発想だ……
「フォース」は「場」なので、単一では成立せず
結局、宇宙全体は、フォースによって結ばれている。

なにか、共通したものの見方を感じます。

4.

スター・ウォーズシリーズの中では、よく次の言い回しが出てきます。
「フォースが共にあるように」
戦いに出かける友との別れなんかのシーンで使ってます。

この原語は、どうも
May the Force be with you.
これみたいです。

で、この言い回しは……
May God be with you.
という、昔からよく使われる言葉のもじりだ。

これでいうと、フォースは「神」みたいにも受け取られます。
ただ、一つちがうのは……
フォースには、暗黒面(ダークサイド)があるということ。
ライトサイドとダークサイド。
つまり、善悪二元論になってるという点です。

キリスト教は、明確に神の一元論。
サタンは、神のダークサイドというわけではない。
この問題は、実は深刻で、なにか解ききれない困難を内蔵している。

グノーシスでは、創造神ヤハウェは、実はニセの神だという。
彼は、プラトンのいう「デミウルゴス」で、質料、ヒュレーがないと「創造」ができない。
その点、粘土から陶器をつくる人間の職人さんといっしょ。
ホントの神は別にいて、無からの創造を行う。
むろん、デミウルゴスも、この「ホントの神」が造った。

この世界は、ヤハウェという「ニセの神」によって造られたから……
こんな、混乱と悲惨と不正義の渦巻く「悪の世界」になってしまった。
ホントの神は、この様相を見て、なんとかせんといかん……ということで……
イエス・キリストを、この世界に遣わしたのですと。

この考え方からいくと、イエスが祈る「父なる神」は、ヤハウェじゃない!ということに……

このあたり、やりだすと、なかなかたいへんなことになる予感がします。

5.

「フォース」と「パワー」
訳すと、どちらも「力」ですが……
どう違うんだろう?

調べてみると……
「フォース」は、ラテン語の「fortis」強い、からきている。
これに対して……
「パワー」は、やはりラテン語の「posse」能力がある、から。

アリストテレスは、「力」を二つの概念で考えたといいます。
デュナミス(潜勢態)とエネルゲイア(顕勢態)。
可能性の状態がデュナミスで、それが実現されるとエネルゲイア。
posse からくるパワーがデュナミスで
fortis からのフォースがエネルゲイア
そういうことなんだろうか……

ニーチェの「主著」になるはずだった断片集。
このタイトルが「力への意志」。
原語では、「ヴィレ・ツーア・マハト」。
「マハト」が「力」なんですが、これは、英語訳だとフォース?それともパワー?
調べてみると、「ウィル・ツー・パワー」となってるみたいですね。

英語だと、やっぱり、潜在的な能力みたいなものを「パワー」で表わし……
現実に、そこに現われている力を、「フォース」という……
そういう意味の差が、あるようです。

じゃあ、英語の「フォース」は、ドイツ語だとなんになる?
調べてみると、「フォース」もやっぱり「マハト」みたいです。
May the Force be with you.
この決めゼリフを、
Möge die Macht mit dir vein.
こう訳しているサイトがありました。 リンク

ちなみに、このサイトでは、イタリア語で la Forza、スペイン語で la Fuerza、フランス語で la Force、オランダ語で a kracht、としている。
現代ギリシア語の訳もあって、これは he Dynamehe。
アリストテレスの「デュナミス」と「エネルゲイア」からすると、「エネルゲイア」じゃないかと……と思うのですが、逆になってる?

6.

木田元さんの『ハイデガーの思想』という本(岩波新書)に、おもしろいことが書いてありました。(以下、引用)

『ハイデガーによれば、近代や中世のそうした<現実性>の源は古代ギリシアの存在論にある。たしかに、ギリシア語で現実性を意味する<energeia>という言葉は、<en+ergon+語尾>というつくりになっており、<作品(エルゴン)のうち(エン)に表われ出ている状態>、制作過程が完了し作品として安らっている状態という意味をこめてアリストテレスによって造語されたものである。音の類似から容易に推測しうるように、近代の<エネルギー><エナージー>という言葉は、たしかにこの<エネルゲイア>から派生したものであるが、<現に働いている力>というその意味は、制作が完了してその終局に安らっているという<エネルゲイア>の原義とはまったく逆になっていると、ハイデガーは指摘している。』(引用おわり)

この考え方からすると、もしかしたら、フォースを「エネルゲイア」とするのはまちがっているのかもしれません。フォースは、まさに、そこに「現に働いている力」なのだから……しかし、だからといって、デュナミスとするのもおかしい気がする。デュナミスは、まさに「可能性」であって、たとえば、高いところにあるブ物体は、位置のエネルギーを持っている、つまり、落下という「現に働く力」をいつでも開放できる可能性をもっている。こういうのを「デュナミス」というのでしょうから。

ということで、ますますわからなくなってきました。では、ハイデガーの考えでは、「現に働いている力」はなんというのだろう?

こうして考えてみると、一言で「力」といっても、実はさまざまな側面、様相を持っていることがわかります。「現に働いている力」と「可能性としての力」。この問題は、中世のスコラ哲学で大きな議論となった、クィッディタス(通性原理)とハエッケイタス(個性原理)のことにも関連してくるような気がする。

事物の本質的な面に注目したのがクィッディタス(Quidditas=Quis,何であるか?)で、事物が、個として、まさにそこに現われている面に注目するのがハエッケイタス(Haecceitas=Haec,コレである)。この考えからすると、モノが潜在的に持っている力はクィッディタス、本質存在的で、モノが、今まさに発揮している力はハエッケイタス、現実存在的であるということになります。

木田さんによると、ハイデガーは、「存在」という立場から、古代ギリシア哲学の根源的な「読みかえ」というか「読み直し」をもくろんでいたようで……「存在」(ザイン)という言葉が伝統的に与える、静的なスタンスではなく、これは実はヴェールデン、つまり「生成」なのだと……

なるほど、「我は、ありてあるもの」ではなく、「我は、なりてなるもの」……あるいは、「我は、なりゆくもの」である……ということなのでしょうか。そして、ハイデガーのこの立場は、実はニーチェから受け継いだものであると、木田さんは説明しています。

そうすると……1950年代のアメリカのコンタクティたちが、宇宙船や人体や惑星が外に放出する力の場のことを「フォース・フィールド」といい、またスター・ウォーズシリーズで、宇宙を貫く力のことを「フォース」と呼んでいるのも、納得ができるような気がします。「常に、そこに現われている力」……これを、静かに存在しているものではなく、今、まさに「成りつつあるもの」として見る……こういう見方が、そこには一貫してあるように思えます。

クィッディタス、本質存在に重きを置くトマス・アクィナスの考え方よりも、ハエッケイタス、現実存在こそ重要と考えるドゥンス・スコトゥスの考え方……そういうことになるのでしょうか。そういえば、ハイデガーの学位論文は、ドゥンス・スコトゥスにかんするものだったそうですが……

まとめてみると、フォースは、エネルゲイアで、現に働いている力、なんですが、ハイデガーによるとこれは、「働きが終わって安らいでいる状態」なんだけれど、これを、スター・ウォーズでは、やっぱり「現に働いている力」としているが、「宇宙全体に働く力」という意味では、デュナミス的な理解もあって、よくわからない……

ということで、ますますわからなくなってきたのはたしかなようです。