第2身体のこと 1〜12

creatorsbankというウェブサイトに、calamar名で投稿した文章です

1.

第1.5身体
第1身体と第2身体の境界領域。
ここには、爪や体毛、角質層なんかが入ってきます。
内臓系では粘膜なんかもそうなのかな?

神経が通っていないから、ちょん切られても痛くありません。
でも、あるとないではかなり違います。

爪も不思議だけど、体毛も不思議ですね。
獣ではほぼ全身にはえる体毛が、人間では局所的です。

髪の毛もアンダーヘアも、そして成人男ではヒゲなんかも、物理的であると同時に精神にも大きな影響を持っています。
マニュキアやったりネイル・アートに凝る人にとっては、爪も精神的ギアになる。

粘膜なんかだと、かなり物理的に、細菌やウィルスとの攻防戦が行われる場所です。
性感帯の粘膜は、精神にも大きな影響を持ってますし……。

お化粧なんかも、実はかなりこの境界領域に入ると思う。
整形なんかになると、相当程度第1身体に食いこんできますし。

下着なんかは、分類的には第2身体だけれど、実は、この境界領域と考えた方がいい場合が多い。
昔の日本人男性はふんどしでしたが、ああいう食いこみ型下着は、もろに第1.5身体になると思う。
女性のTバックなんかもそうですね。

ラテン系の国では、Tバックのことを「タンガ」と呼ぶとききましたが……
この言葉は、元はラテン語のtangere「接触する」というところからきていると思う。
「さわる下着」で、まさにピッタリのネーミングです。

noli me tangere. 我に触れるなかれ。
イエス・キリストの復活した姿を最初に見たのは、マグダラのマリア。
墓の前に立つイエスに触れようとした瞬間、このお言葉。
マリアは、既に人の子ではないイエスの境界領域に入ろうとした。

SFなんかでよく出てくる「なんとかバリア」も、やっぱりこの第1.5身体になると思う。
スター・ウォーズなんかでは、「フォース」といってますが、これは正確にいうと「フォース・フィールド」、力場のことなのでしょう。
剣道なんかやっている人には、果し合いのたびに実感されるこの不思議な第1.5身体の場。

フォース・フィールドは、物質的なものではないので、その到達距離は無限大にもなる。
作家の埴谷雄高は、「念速」でしたか、人の思念の速さは光速をはるかに上回り……私がアンドロメダ星雲のことを考えたとたん、私の思念はアンドロメダに届く、といいました。

思念も第1.5身体だとしたら……

宇宙って、不思議ですね。

2.

「テレパシーは触覚である。」

これは、有名なUFOコンタクティ、ジョージ・アダムスキのお言葉。
ここを読んだとき、はっとしました。

テレパシーというと、物理的手段を介さずに思念を届けられる超能力……
なので、なんとなく、離れたところでも電話も無線もなしに通信できる便利な能力……と、思っていた。

ところが、彼によると、テレパシーは、接触、コンタクトの感覚なんだそうで。
なるほど……と思っちゃいました。

「懸かってくる」といいます。

『君が、どんな人物であるのか。それは、君が、なにに懸かられているかをみればわかる。』
アンドレ・ブルトンの『ナジャ』に、こんな文章があったと思います。

能では、シテ方に、亡霊や生霊が「懸かってくる」ことが多いけれど……舞台を見ていますと、ときどき本当に「懸かっている」と感じることがある。

日常普通にも、これは見られることで……たとえば、仲が良い恋人さんたちが街を歩いている様子を見ると……「互いに互いが、懸かっている」と感じられることもある。

第2身体を考えるとき、この「懸かっている」ということは、おそらくキモになることなんではないかと思います。

道端に停めてある車……それが、突然ブレーキランプが点灯してエンジンがかかり、方向指示灯が点滅して動き出す。
車は人に「懸かられた。」

人は車のことを第2身体と思っているかもしれないが……外側からみるとそれは逆転していて、人が車の第2身体として懸かり、車を動かす……
人が車の中に入っちゃうと、車が動いているみたいで不気味……
そういう意味で、オープンカーは、人がちゃんと見える分、健全ですね。

人は、他人の第2身体となってしまうこともある。

オーケストラの指揮者なんかだと、百人くらいの人にいっぺんに「懸かる」必要があるので大変。
軍隊の指揮官なんかでも、そうでしょう。

馬に乗る人は、人馬一体。
どちらがどちらの第2身体なのか……
ケンタウルスの図像を見ていると、そんな感じもします。

バイクに乗る人を、ケンタウルス風に描いたら、さまになるのかな?
私は、乗ったことがないからわかりませんが……

3.

イレズミやピアス、割礼なんかは、1.5というよりははるかに1に近い。回復不能という点を考えると、0.9とか0.8くらいの世界かもしれない。
893さんのユビツメなんか、0.7くらいの感じかな?
どれもやったことがないからわかりませんが……オソロシイ世界です。

面白いことに、数値が1に近づけば近づくほど、精神、ココロに与える影響は、深く、大きなものとなる。
数値が2に近づけば、精神やココロに与えるダメージは、小さくなります。

人の範囲というものは……皮膚や消化管内壁をめぐるあいまい領域を常に出入りしていて、実は、人のココロというものも、そこはかとなくそのあたりを漂っているものなのかもしれません。

私が私であること……は、実は、この境界領域の問題なのかもしれない。
そこに……イレズミやピアスみたいな過激なものから髪型や服、ファッション、ギア、バイクや車みたいなものが混在して、私が私であることを「つくっている」。

この「私領域」を一歩、内側に入ると、そこはもう、私自身にもわからない、闇の世界です。
あるいは……この「私領域」から離れていくと、そこには公、パブリックのせ界がひろがっている……

テレパシーやフレンドリ、はたまたハームフル、傷つけあいみたいなものは、この境界領域に懸かってくる現象……ここで、私は、私でないものと交わり、また敵対し……ここは、「自我形成」に、まことに大きな影響をもってくる領域であると思います。

私が、私であること。私とはなんなのか……
それは、ブルトンのいうとおり、私がなにに「懸かられて」いるのか……そのことそのものなのかもしれません。

4.

言葉。
言葉もときどき、人の第2身体になるのかもしれない。

人は、言葉をまとって、自然界に生活している。

人の身体はすべすべだから、衣服をまといます。
ほかの動物にはない、存在の仕方です。

裸で街を歩いたら、どうなるか……
昔、パフォーマンスでやりましたが……そのときの感覚は、不思議だけれど、言葉を失った感覚ととてもよく似ていました。

言葉を失ったことがないから、そういうのも変だけれど……
言葉と服は、実は、同じものなんじゃないか。
そう、思います。

お風呂やさんで裸になっても、そういう感覚にはなりません。
でも、街中で裸になると……
やっぱりものすごく頼りない……なにか裸で世界に投げ出されている感覚(あたりまえですが)。

人は、裸が自然ではなく、服を着ている方が、実は自然なんだと思います。
人のあり方と言葉というものがどうしても切り離せないように。
人は、第1身体と世界をへだてる「なにか」が要る。

それが……実は、人の本質的な存在の仕方だと思います。

5.

旨いものは、人から、言葉を奪う。

昔、テレビで、旨いもの食べ歩きのリポーターの方が、語っていた。
ある番組で、海辺で漁師さんからとれたての蟹をごちそうになった。
彼は、「ウマイ」と言った。
その瞬間、漁師さん、
「あっ、今日の蟹はダメだ。」と。

漁師さんいわく、本当に旨いときは、だれもなんにもいわない。
ただ黙々と、食べるんだよ、と。

そのリポーターさんによると、そのとき……
あまりに旨すぎて、なんの言葉も出なかった。
でも、リポーターという職業柄、なんかいわなきゃ
ということで、「ウマイ」と言った。
ホントは、ものもいわずに、ただ喰いたかったとか。

旨い!は、人の第1身体と世界を、直結させるんでしょうか。
がぶっとやった瞬間……もうなにも要らない。
おそらく、その「絵」だけで、充分に伝わったんでしょうね。

吉本隆明の本に……
ずっと山奥に暮らして、一度も海を見たことのない人が
はじめて海に出て
「海だ」
という……とある。
言語にとって、美とはなにか。

第2身体でない言語。
それは、やっぱり「美」なのかもしれない。

言葉を脱いで、裸でくらそう。
それは、結局絶対無理な話なんだけど……

服を脱いで、裸になることはできても
言葉を脱いで、裸になることはできません。
でも、それをやる言葉ってものがある。
隆明さんは、そんなことがいいたいのかも。

「美」がそこにあるのなら……
やっぱり、それを求めたい、ものです。

6.

人の皮膚は、電気を帯びたようになっていて、なんだか第2身体の受容領域を形成しているみたいです。

蝋人形なんかが、いくらよくできていてもわかるのは、皮膚表面が、この第2身体の受容領域になっていないからかもしれません。

第2身体の受容領域は、つねにある閾値以上に活性化されていて、第2身体を欲している。

人の皮膚は、服に飢えている……

それは、ちょうど、内臓表面領域が、食物に飢えているように。

自分にピッタリの服を着ると、なんか安心できるのは……皮膚が服を得て、お腹一杯になるから?

アニメに出てくるモビル・スーツなんかも服、第2身体の一種ですね。
パイロットは、服を着ている感覚で、巨大なロボットを操る。

エヴァンゲリオンなんかだと、服よりももっと密着して、第1身体と溶け合っている感じになりますね(実際、溶けちゃったシーンもあったし)

人の皮膚の第2身体の受容領域は、あんまり甘くみれないな……と思います。
人は、実は、この部分でも考える。というか
脳で考えるより、もっと ぴちっ としたことを考えるのは、実は、この部分ではありませんでしょうか。

なにに ぴちっ とするのか……といえば
それは、まわりの世界に。
世界にぴちっとつながっていく働きは、実は、この部分にあるんじゃないかと
さえ、思います。

ここは……じつにアブナイ場で
緊密な自我領域とパブリックの交差する場でもあり
自分が、世界の中で、自分であることを保証する場
でもある。

ここに、大きく
私たちは、自分の名前を書く。
でも、その名は……
自分さえ知らない名
だったかも、しれません。

7.

私のファッションは、めちゃめちゃ……らしい。
コーディネイトがなってない……みたいです。

でも、世の中には、私以上にファッション感覚が狂っている人もいる。

ある日、電車で……
私の向かいに、中年男性が座っていた。
この人の着ているものの色の組み合わせは、かなり変でした。

ヴィヴィッドのオレンジ色というかヴァーミリオンが主体のシャツに、鮮やかなきみどり色の上着で、目がおかしくなる。
やだなあ……と思っても、向かいだから、つい目に入ります。

すると、この男!
ポケットからたばこを出して、吸いはじめた。
むろん、全車両禁煙の電車です。

混んでいる……というほどではないが、この、あまりの非常識。
要するに……ちょっとアタマのおかしな人だったみたいです。

ファッションが狂っていると、アタマも変。
ということになると、私もちょっと変。
ということになるかも。
ですが。

やっぱり、第2身体としてのファッションは
かなり、その人の心の中を、反映するもののようです。

その時代にはふつうのファッションでも
ちがう時代からみれば、大丈夫ですか?
というのもある。

たとえば、ルネサンス時代のヨーロッパの男性の下半身。
第1身体の形状を、くっきりはっきり描出する
あの、白い、ぴちぴちの
タイツ……(といって、いいのかな?)

あれって、かなり恥ずかしいと
思いますが……

当時は、イキで、
カッコよかったんですかね。

まあ、ダイエットせねば!
という気分にはなる
服装。だけど。

8.

昔、「全身を、顔にしよう!」という運動をやっている人がいた。
一種の健康運動でした。

顔は、冬でも露出していて平気。
全身の皮膚を顔のように強くすれば健康になる……
ということで、真冬にパンツ一丁で、テレビに出ておられました。

でも……
やっぱり顔と、ほかのところの皮膚はちがうと思う。
からだには、服が必要です。

人の皮膚は、生得的に第2身体を求めている。
人は、なぜ服を着るのか……

たしかに、動物のうちで、服を着るのは人間だけです。

寒いから。
羞恥心。
ファッション。
いろんな説明は、つく。
でも、みんな、ものたりない。
心から納得できる説明は、きいたことがありません。

「人はなぜ服を着るか」
このワードで検索すると、一発目に次の答が。
「人はなぜ服を着るか、それは裸になるためである。これが正しい。」
うーん。おっしゃるとおりかもしれません。

NUDE(裸)とNAKED(裸にされた)はちがう。
これは、たしかにそのとおりだと思います。
NAKEDに近い意味で、STRIPPEDというのもある。

The Bride Stripped Bare By Her Bachelors, Even
(彼女をめぐる独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも)
マルセル・デュシャンの代表作、通称「大ガラス」の正式名称です。

デュシャンは一生「性」の問題にこだわり続けた作家。
この代表作の「意味」は、いまだに解明されず……
花嫁は、今もなお、瞬間瞬間に、独身者たちによって脱がされつづけている。

ルネサンス絵画のイコノロジーでよく登場する「聖愛」と「俗愛」。
裸の女性と服を着た女性が、同じ画面に描かれている。
はたしてどちらが「聖愛」で、どちらが「俗愛」なのか。

で、一般の予想を裏切ることの好きな解説者が、たいていこういいます。
「一般の予想を裏切って、裸の方が聖愛、服を着ている方が俗愛なのです。」
で、みんなびっくり(したふりを)して、でもなぜか妙に納得したりします。

「服」という観点からこれを考えてみると(邪道ですが)
裸の場合、これ以上脱ぐことはできない。「ヌード」です。
でも、服を着ていれば、脱がせられる♪♪「ネイクド」だ。

事象は静止しているのではなく、動く心、心のわずかな動きの中に……
エロティシズムというものは、ある。
ほとんど萌芽。「萌え」という美しい日本語が、ぴったりです。

人は、なぜ服を着るのか……

全身が顔になってしまったら
とてもつまらない世界に、なります。

9.

デュシャンの独身者たちは、なぜ制服を着ているのだろう?


9つの異なる制服とお仕着せの鋳型を包み込む9つのカヴァー
だそうですが。

独身者たちの内部は「欲望のガス」で満たされる。

「制服の鋳型」は、この「欲望のガス」をかたちに保っておく耐圧容器。
つまり、独身者たちは、いかめしい制服の中がからっぽ。
ただ、「欲望のガス」が充満している。

要するに、デュシャンの独身者たちは、第1身体を持っていない。
というか、単なるガス。
そのかわり、超強力な鋳型の耐圧容器の第2身体がある。

なんともみじめで、かわいそうなお話です。

独身者 bachelorの語源は、月桂樹の実 baccalaureatus(ラテン語)だそうで、フランス語の「バカロレア」もここから来ているとか。
要するに、学問を修めた人に与えられる栄誉の照合でしたが……
(バチェラー・オブ・アーツなんていいますよね)

それはさておき
独身者たちの体内で充満したガスは、それぞれの独身者の頭についている細いパイプをつたって送られます。

このパイプのかたち……
これ、無造作にぴゅぴゅっと描かれているようですが、実は定規でひいている。
デュシャンが、自分で独自につくった定規です。

ストッパジュ・エタロン
停止原基

デュシャンは、1mの長さのひもを1mの高さから3回落下させてそのかたちを写し取り、3種の定規をつくった。(これそのものも作品になっている)

独身者の頭のパイプのかたちは、この停止原基の形状で、1種類が3セットで合計9本なのだそうです。(透視画法で描いてます)

この間、DVDで「ヘルボーイ・ゴールデンアーミー」という映画を見ていたら、やっぱり「ガス男」が出てきました。
全身を宇宙服みたいなのに包んでいるが、中に入っているのはガス。

やっぱり、こういうイメージになるんでしょうか……

デュシャンの独身者たちのガスのゆくえは……

10.

パイプを通って集められた独身者のガスは、7つの漏斗に導かれて、ここで凝縮されて液体になります。
そして……「眼科医の証人」と呼ばれる検眼表の図のようなところを垂直上昇して上の「花嫁」のゾーンへ。

独身者は、自らの観念の中で、「花嫁」の衣装を脱がす。

新婚の初夜
花婿は、花嫁の待つ部屋に入る。
そこは、まっくらです。

くらやみの中で……
花婿は花嫁の衣装を一つ一つ脱がせ
そして 最高の瞬間に至ります。

これは、必ず、暗闇の中で行われなければならない。
さながら、みあれする神のように……

独身者は、永久に「花婿」たりえないので
strippingを、頭の中で行います。

独身者の脳内には「欲望のガス」が充満し……
それは、多くの場合、みじめな結末となります。

でも、独身者は、めげない。
「欲望のガス」は
はきだされてもはきだされても
なぜか、どこからかわいてきて
独身者の脳内に、充満する。

人間の文明は……
このようにして、つくられてきたのかもしれません。

「欲望のガス」は
はたしてどこから、やってくるのか……

ガラスに封印された乾いた時空の中で
デュシャンの独身者たちは
いまもなお、欲望のガスをためてははき、ためてははき……
うむことなく、それをくりかえしています。

11.

デュシャンの「花嫁」の原型は、よく知られているように、「階段を降りるヌード」と題された一連の作品なのでしょう。

「階段を降りるヌード」では、「ヌード」という言葉があるから、これは衣服をつけていない、第1身体そのものの状態だと思われます。

これに対し、「大ガラス」の花嫁は、独身者たちによって「裸にされた」とあるところから、第2身体、つまり衣服を脱がされた「ネイクド」の状態。
どちらも「裸」なのだけれど、ある意味、大きな落差がある。

ヌードデッサンなんかのときにも、モデルさんは、バスローブなんかをまとった状態で現れて、パッと脱ぎます。
ふつうに服を着ている状態から、一枚一枚脱いでいく……ということはやりません。

「階段を降りるヌード」は、デッサンのモデルさんのような状態だけれど、「大ガラス」の花嫁は、まさにストリップ・ショーそのものです。

独身者たちの制服の鎧の中に充満するガスの欲望が、花嫁の衣装を、一枚一枚はいでいく。
それは、まずは想像の中で……

ところが、この独身者たちの欲望に点火するのは、花嫁そのもの……。
花嫁は、そのことを、いったいどれだれ自覚的に知っているのだろうか。

たとえば最近の、街をゆく若い女性の服装は、過激です。

下着じゃないの?とか、ほとんどお尻の見えているジーンズとか……

彼女たちにとってみれば、それは、「かわいいー」とか「セクシー」とかのファッション用語領域にはいるものかもしれないけれど、男性の目は、やっぱりちがう。

男性は、独身者となるとき、自らを鎧で固めて、その内部には「欲望のガス」が、ふつふつとたまりはじめる。

デュシャンの独身者たちが、制服で身を固めているのは、わかる気がします。

独身者の気配を感じた花嫁は、花嫁自身の目とともに、独身者の目も、もちはじめる。

独身者のまなざしは単純明快で、「欲望のガス」そのものだけれど
花嫁の2重のまなざしは複雑で、その分だけ「快感」も大きいのかも。
うーん。これはやっぱり、オソロシイ作品だ……。

12.

独身者と花嫁の出会いは、それは、電気的接触。
一瞬、スパークがおこって、またすぐに無の世界……なのでしょうか。

花嫁の衣装は、独身者たちによって脱がされるためにある。
と同時に、花嫁は、衣装を脱がされる自分自身を、感じる。

花は、自分自身を見るために咲く。

こんなことを、言った人がいた。

なるほど……と思うけれど、でも、論証はできない。

しかし、デュシャンの花嫁は、たしかに
自分自身を見るために装い……
そして、脱がされる自分自身を感じるために、脱がされる。

人の衣服は、いろんな面で、アンビバレンツです。

脱がされるために着る。

着ている自分を見る他人の目のために、着る。

その他人の目にのって、自分自身を見るために、着る。

こういう複雑怪奇なしつらえが、人にとっては
とてもおいしい心の食物になるので……

だから人は、なにも着けない第1身体で
生まれてくるのかもしれません……

人の第2身体は
自分と他人が、そこで切り結ぶ場であり……
また、自分と、他人を迂回した自分が
そこで、再び出会う場……でもある。

独身者たちによって衣服を脱がされる花嫁……

どう考えてもこれは
良くできている、一瞬の物語。

*写真は、東京大学にある「大ガラス東京ヴァージョン」
デュシャンのメモである「グリーンボックス」の解析によって、再制作された。
ただし、レプリカではなく、生前のデュシャンによって「ホンモノである」と烙印?を押されたホンモノ。だそうです。