「深い森」を求めて

『infans』第15号に収録

私は平面作家です。
自分のつくる作品と、「虚」との関連を考えてみたいと思います。

以前、耐火物に関する特許の公報を読んでおりましたら、「マトリックス部分」という表現が頻出しました。
脳中には、当然のように映画『マトリックス』のことが思い浮かびましたが、どうもよくわからない。
それで、いろいろと調べてみましたら、耐火レンガなんかで「マトリックス」という場合、どうやら「母材部分」を言っているのだということが、わかってきました。
つまり、耐火物は、一般的に、比較的粒径の大きな「骨材」と、比較的粒径の小さな「母材」からなっていて、この「母材」に相当する英語が、どうも「マトリックス」らしい(発音的には「メイトリクス」のような感じでしょうか)。
なるほど……と思いました。
同時に、映画の「マトリックス」の意味が、はじめてわかりました。

父……分断し、特化し、個性化する作用
母……融合し、偏在化させ、同質化する作用

このように考えた場合、母(mother)と語源的に関連を持つ(らしい)このマトリックス(matrix)という言葉が、かなりの広がりをもって、私たちの「ものの考え方」の枠組みをなしているということがわかります。
たとえば、2つのものがあった場合、それが、同じか、違うか、をどうやって判別するか……という前に、もうすでに「2つ」といっている以上、なんらかの「違い」を認めている。
もし、両者になんの違いも認められなかった場合には、もはやすでに「両者」ということも意識されない。「2つ」もむろん意識されませんが、「1つ」さえ意識にはのぼらないでしょう。
ここが、「虚」または「空」の現れる地点であると思います。

要するに、「マトリックス」は、それが「マトリックス」であると意識された瞬間に、もはや「マトリックス」ではなくなる。
映画『マトリックス』では、主人公のネオが、赤い錠剤と青い錠剤の選択を迫られます。
「覚醒」を選択したネオは、「マトリックス」の夢から目覚めるが、その瞬間に、彼にとって、「マトリックス」は「マトリックス」ではなく、「マトリックスという対象」と化す。
母材の中に取りこまれてその一部となっている限り、彼は、すべてと<同質>であり、それは、区分されることのない「虚の夢」の中にいるようなものです。
しかるに、「区分」が開始されたとたんに「実在」が立ち、「役割」が、「使命」が現れる。
存在の不思議……といってもよい、感動の瞬間です。

絵を描くことを考えてみますと、たとえば、一枚の真っ白な紙は、「マトリックス」です。
素材として完全に均質であり、どこをとっても他のどことも全く違いはない。
したがって、ここには「虚」があり「空」があります(矛盾に満ちた言い方ですが)。
一枚の紙に、1個の点を打つ。
あるいは、1本の線を引く。
そうすると、均衡は破れ、「存在」が立ち上がります。
これは、全く「父性的」な力であり、同質、均衡を破壊し、分断し、個別的、個性的なものを「無理矢理に」この世界に存在させていく力でもあります。
ここにおいて「虚」は奪われ、世界は「地」と「図」から構成され、「物語」がはじまります。

私は、今、一筆書きの作品をつくっておりますが、描いているとき、いろいろな物語が去来し、意識のマトリックスとそれを打ち破り覚醒させる暴力的な「父の力」にさいなまれ……かつまた無限の「母の眠り」の中に落ちこみ、いくら線を重ねても「虚」が増殖するだけ……ところが、どういうわけか「虚の積分効果」のようなものがありまして、「虚」がたまっていくと、だんだんと「母の眠り」の中にいるのがいごこちが悪くなり、突然、すべてを破壊してしまう暴力的な「父の力」にみまわれる。……そのくりかえしです。

映画『マトリックス』では、主人公のネオは、「この世界は僕のいる世界ではない」という、そこはかとない奇妙な思いにつきまとわれ、あげくに「マトリックスを出る」選択に至りますが、この過程は、作品製作においても実はくりかえし現れる「眠りと覚醒」を思わせ、興味深いものがあります。
描いていると、線自体が、「ここは、僕のいる世界ではない」と思うのです。
それで、今までの世界をぶちこわしても、「冒険の旅」に出ようとします。
ここで、一つ、問題になるのは、全体の「構成感」であると思います。

現代は、後近代、後工業化社会における「構成感」を必死で求めている時代であると思います。
トーマス・マンの小説『ファウストゥス博士』においては、この「構成感」の問題が、音楽の分野に仮託されて追求されていましたが、結局壮大な失敗に終わっている感があります。
「構成感の喪失」は、「トリスタン和音」が有名ですが、すでにベートーベンの第5交響曲の3楽章から4楽章の移りゆきにおいて、「落としどころ」を求めてさまよう時代の姿があり……結局、仮の落としどころで曲は結べても、「世界の調和」は得られず、課題は累積して現代に積み残されています。

私は、今、単純な自分の作品をつくっているだけなのですが、それにもかかわらず、「構成感」の問題は、やはり自分の問題としても、とても切実です。
あらゆる物語の「信用」が地に落ちて、なにも信じられるものがなくなってしまったこの今という時代。
物語の復権や再創造は、空しい試みであるとはわかっていても、あちこちで試されています。
私の作品の中でも、線は、かなり必死になって「物語の創造」をやろうとします。
でも、それは叶わず……よりどころさえ失った線は、紙という空虚の中を、どこまでも漂います。

今……世界は、「深い森」を求めているのだろうと思います。
そこは、実在が帰還する場所であり、また、実在が、その歩みをはじめることのできる場所です。
1本の線だけなのですが……見事に、「人類の課題」にリンクしているのだなと、しみじみ思います。