ケント紙に鉛筆, 180mm × 180mm, 2002年 / Pencil on paper, 180mm × 180mm, 2002.

この作品には、いろんな思いがこめられています。
上部にある形象は、アフリカの洞窟絵画からとったもの。また、左にはスピノザの『エチカ』の一節が描かれています。
下にある「INVISI」(アンヴィジ)というのは私の造語で、「否視」、つまり、視覚の否定、といった意味です。一時期、この「否視」をテーマに、いろんな作品をつくっていました。
本当に見たいものは見えない……そんな語感ですが、展覧会で壁にかかっている作品を見るとき、人は、そこになにを見ているのだろうか……
日常、人がなにかを見るときは、そこに、おそらく「自分の見たいものを見る」のでは?
車のキーをなくして探している人は、見慣れた自分の「車のキー」を見たい。そういう目であたりを探しますから、いろんなものが目に入っていても、それらはみな、ネグレクトされてしまいます。
ところが……話はそうカンタンには終わらなくて、探しているうちに、以前に探していて見つからなかった本が、偶然目に入ってくるとしましょう。すると人は、「なんだ、こんなところにあったのか!」ということで、一瞬、今探している車のキーのことも忘れてしまいます。
おっと、キーを探していたんだっけ……ということで、ふたたびキーを探しはじめる……しかし、これが、ちょっとボケが入ってきたりすると、本を見つけたときに満足感があって、それで今まで探していたキーのことをケロッと忘れる。で、車に行ってドアを開けようとして、「あっ、キーが……そういえばキーをさがしていたんだっけ」……ということで、けっこうみじめな気持ちにもなったりする。
脇道が長くなりましたが、こんなふうに、人は、常日頃は、自分の見たいものしか見ていない。そうでないと、日常生活がスムーズにおくれない。キーを探しているときに、いろんなものが目に入って、それに心がとらわれてしまうと、なにがなんだかついにわからなくなる。
じゃあ、展覧会で壁にかかった絵を見るときはどうなんでしょうか……人は、そこになにを見たいんだろう……
たとえば、ゴッホの展覧会を見にいったとして、事前にちょっと情報で、「ヒマワリの絵の黄色がスゴイ」なんて耳に入ってますと、とにかくヒマワリの絵の前にいって、その「黄色」を見ようとするでしょう。
そうすると……その黄色はたしかに目に入る。認識できる。しかし……おそらく、それ以外の要素は目がはねつけて、見ていても見えない……そんなこともあるのではないでしょうか。
ホントに裸眼でモノを見る……なんのフィルターもなく、純粋にモノを見るということは、難しいというか、ほぼ不可能なんじゃないかとも思うのです。
そしてまた、作家の方は、見る人になにを見てもらいたいと思っているのか……
そんなことを考えていると、とてもふしぎな気持ちになってきます。
INVISI……否視……このテーマは、絵を描く人も見る人も、そして、両者の間にいったいなにが「伝わる」のかというテーマも含んで、なお解きえない奥行きを含んでいるような気がします。